八正道(正定について) | H-MANオフィシャルブログ「H-MANのナカナカナイブログ」Powered by Ameba

八正道(正定について)

今年は夏が無かったような感じですね。既に秋の気配。夏は野外のプールで泳いでいますが、もう水が冷たいです。早く来年の夏来ないかな~、なんつって。

ところで世界陸上見ましたか?やってくれましたねオダ・ユージ、否やってくれませんでしたね。そんなにモノマネされたくないのか?ま、何でも良いんですけど。

まぁ、与太話はこのぐらいにして、本題に入りましょう。「八正道」、、、コメントを見ましてもなんだか難しいというような意見がありますが。よ~く分かりますし、実際、私も高橋先生の本を読んで、これは素晴らしい!とは思ったのですが、いきなり「八正道」についてピンと来ていたわけではありませんし、実際「八正道」というものをどのように実践するのかというのは分かっていませんでした。さて何故か?答えは、八正道の八つ目「正定」というものが何なのか?どのようにするのか?どういう意味があるのか?分かっていなかったからです。

「正定」、「正しく定に入る」つまり禅定、瞑想するという事なのですが。高橋信次先生の本には反省の事だと書いてあります、、、なるほど、、、???しかし正法に触れたばかりの私は次ように考えていました。「今までの人生もいろいろな事を反省、修正してやってきた、客観的に見ても昔に比べれば自分もかなりまともになっているはずだ。これからもそうする、自信もある、、、だから禅定はしない、やらなくても良い」ただその後も正法のことを勉強していく内にやはり「禅定」が重要であり、禅定をしなくては先に進めないという事に気付き、結局「禅定」をはじめるのでした。その時私が考えたのは、もし自分、もしくは人間が転生輪廻し永遠に生き続け、成長し、悟りにむかい向上していくのなら、転生輪廻の何処かの段階で正法(神理、真理)に出会い、禅定をする人生を送るということでした。人生は永遠ですから、いずれやれば良いのですが、私は永遠ならば今すぐやる、という選択をしました。私の座右の銘は「一人でもやる、一人でもやめる」ですからね。

さて、禅定をすると一体どうなるのでしょうか?

高橋先生の『人間釈迦』にはブッタが悟った時の禅定の様子、が書かれていますが。最終的な悟りの到達点は「宇宙即我」という境地になるそうです。ただ私達が「宇宙即我」に到るには「あと何万回か生まれ変わらなくては無理ですけどね」と高橋先生が講演で言っているのを聞いた事があります。そして悟りを開き、「宇宙即我」の境地になると転生輪廻から解脱する事になります。と言うとどういうことかといいますと、自分の意思で時と場所を選び産まれてくる事が出来、この世にあっても自由にあの世に行けるということです。もちろん生まれてくる理由は正法を説いて衆生を救うことにあります。そのような方を如来とかメシアといいます。

さて、「宇宙即我」でも如来でもない私が禅定をすると何があるのか?もちろん、高橋先生のよう禅定中に肉体を抜け出して、何処かに行ったり、あの世に行ったり出来るわけではありません。ただあの世があるという事はわかるようになります、それは霊が見えるとか見えないとかではなく分かってきます。直感が鋭くなります。直感とか虫の知らせとか、私でしたらリリックを書く際の閃きなどは以前とは比べ物になりません。と言うか以前は私も禅定をしないで生活していたわけですが、今思えば目をつぶって生活してるようなものです。「八正道」難しいと考えている方も多いと思いますが実は一番「楽」で、簡単な生き方、道を教えているのが「八正道」です。そしてその閃きや直感は何なのかといいますと、自分が今までの転生輪廻の中で培ってきた智スイ(スイの字が変換できません、彗の下に心)を思い出す、湧き出してくるという事です。これは今生で勉強した知識とは別のものです。般若心経というお経にはこのことが書いてあります。ただ般若心経にはその方法は書かれていませんが。興味のある人は高橋先生の『原説 般若心経』を読んでみてください。

さて「八正道」ですが八つも正しい事をする?なんだか難しい、私には無理という人もいるようですが。八正道も輪廻しますから、正しく見る、正しく思う、正しく語る、正しく生き、正しく仕事をし、正しく道に精進し、正しく念じるという七つを生活の中でやってみる。もちろん全てが完璧に出来るわけがありません、ただそのように努力してみることです。そして禅定、反省、瞑想をする。そしてまた、正しく見る、思う、語る、、、、、と少しずつ積み重ねる事です。八正道全てを完璧にやると考えては息が詰まってしまいますよね。八正道の最後に「正定」があるという事は、人は誰しも失敗するし、間違えるという事です。何度も言いますが八正道は最も楽な生き方、道を教えています。

結局、悟るという事はその字のごとく吾の心を知るという事です。そして自分の心を一分一秒、完璧にコントロール出来るという事です。悟るとか、悟らないとか私には関係ないという人もいると思いますが、誰もが幸せになりたいと思っているし、成長、向上したいと思っているのですから、それは全ての人が悟りに向かって入るという事に他ならず、「人間は神の子」であるという事で、それは否定する事はできません。

ではその禅定の具体的なやり方ですが、少し長くなりそうなのでまた次回という事で。もしこのブログを読んで禅定を始めようとしている方がいるのなら、次のブログを読んでからにしてください。くれぐれもお寺の参禅や怪しい瞑想道場などには行かないように、その理由も次回書きます。

あ、それから前回

”正しく見る、思う、語ることができる人がいたとしても、「私はいつも正しいことを言う」と語る人がいたら、生理的に胡散臭く感じてしまいますし、逆に「私はいつも正しくないことを言う」と語る人は言葉に深みを感じますし、魅力的に思えます。また、前者よりも後者の方が周りの人と「調和」や「心の安らかさ」を持って生活できる気がします”

というコメントを頂いたのですが、それはどちらも「正語」ではないと私は思いますが。どうでしょう?

ではでは。