藤井大地のブログ

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人の性格、在り方はその環境に大きく依存する。地元の友人が明るくなければ自分もそのように、紛争地で生まれたならば銃を握っていたであろう。また出会い、経験などある種のきっかけも大いに性格の変化に寄与することは自身や周囲を見るに明らかである。
つまり人の性格とは変えられるものなのだ。ともすれば自分の性格、在り方は自分で確かに決定できるものであるに違いない。この時のきっかけは常に日頃の思考から反証の想定から生まれる気づきである。いわゆる哲学からだ。こんな人になりたい、なれるはずである。自分らしい気分的思考決定を制限し、理想の在り方を実行し立ち振る舞えばその内面化は容易になされるであろう。
ではそうして理想の在り方であれるならばその理想とは何であるのだろうか。自分の考える理想でもよい。しかし極力理想に自我を混じえず、自分の在り方を他人が聞き、抱く感想が「なるほど素晴らしい」というものであるのが最上ではないか。自分の理想が自分の考えの範疇にある以上そこに必ず一長一短的ベクトルが存在する。理想、その言葉の意味を辿ればそれはベクトル的でなく球体のような隙無き在り方のはずである。もちろんその空間は正義の次元空間に据えられている。そうして在り方に普遍性を持たせる、またそのために、想像上ではあるが他人主体の目線で、無私である必要がある。そうして常に純粋で高潔で正義で粋で遊びがあるようになれる。

こうした考えが私の中にあるのだが私はそれを隅に置き過ごしたこの1年間を惜しみ恥じる。理想から逆行し、人生において初めて、糧なき失敗と築き上げてきた成長の喪失を己に見た1年間である。むこう60年を棒に振るような致命的な負のきっかけの連鎖であった。良心や倫理、プライドに傷をつけ続けたのである。そして過去とは常に永遠であることからその傷は永遠に深く刻み込まれ、その負傷に名誉や自己肯定は全く存在しない。私の人生の到達点の最高を低くしかつ一生高くなることはないのである。これさえなければ、という1年間である。

そしてこれから変える自分の理想の在り方についてつ皮切りに特に恋愛について考えていきたい。
まずこうした思考を巡らせるきっかけとなったのは、もちろん恋愛がきっかけであるのだが、自分の口から不意に発せられた「良い恋愛をしている人ってまた良い恋愛が連鎖的に繋がっていくと思う。」という言葉である。これについての詳細を述べる。私自身が大恋愛からの別れにより、私は新たな恋人に対して健全で純粋な恋愛を強く求めるようになっていた。同時に良い恋愛をすればそこそこの恋愛にそれなりの満足を得ることに価値を見いだせなくなるからである。私は現にその感覚が価値観に根を張っているし、さらには純心をもつ元恋人が新たな健全な恋愛に歩を進め良い恋愛を、幸福を得て、一方、性的に自堕落になった私は過去の高潔を思い常に自己嫌悪に苛まれ、後悔し、気づけば純であれなくなるのではないかという不安に駆られていた。その不安の払拭はなされずむしろ増長されるばかりであったので、今、すぐにこの瞬間に自身の在り方を見つめ直す強い必要性から自分を変えようと思ったのである。

恋人を選ぶ際に、選ぶという言い方には自分自身釈然としないが、重要なのはその恋の始まりの恋心の多寡ではなく長い年数共にいられることであると考える。自身が理想を志す感覚を持つ以上は当然恋人の目線からも自分は理想的に振る舞うはずで、その状態が恋愛における最大の幸福であり愛情であるからだ。経験で言えば、最も燃えるような恋心を抱いたが半年で別れた初めての恋人への別れた瞬間の未練とそこそこ大きな恋心から付き合い4年半共にした元恋人への別れた瞬間の未練では圧倒的に後者が勝る。恋心が常にベストである以上、元恋人を超えて長く付き合ったならば、恋心とはその恋人に対して、付き合った年数への特別性から元恋人を常に上回り最上限に達するもので、前回や前々回の恋人との比較、始まりの恋心の多寡の比較はナンセンスなものである。付き合う年数が結果として特別性になるのである。
私は常に恋人の幸福を願い行動すべきであるし、恋人がいない今、将来の恋人に感じる負い目のない普遍的な、完璧な人間であれるよう最大限の努力、研鑽、プライドを積まなければならない。