今年の5月、地元の郷土史研究会が主催した「地域の史跡・文化財を見て歩く会」に参加した折のこと。

会員の方からの説明で、野坂完山(のさかかんざん)という江戸時代後期の人物について、その一生と功績を知る事が出来ました。

私の住む町にもこのような偉人と言うべき人物が居たのか、と地方の片田舎ながら胸を張りたくなる思いでした。

そんな思いから、1人でも多くの方に野坂完山という人物を知って頂ければ幸いと、彼の生涯を簡潔に紹介いたします。


野坂完山先生の肖像画


野坂完山は1785年、安芸国(広島県)賀茂郡寺家村に村医の子として生まれました。

15歳の時、藩家老の侍医に医術を師事すべく、寺家村から広島の城下へ移り住みます。

広島で2年の間医術を学んだ完山は、師からの薦めによって京へ上洛、当時の医学界を代表する医師・中神琴渓の門下となり更に研鑽を積みました。

1808年に父が死去すると、完山は故郷の寺家村で家業の村医を継ぎます。

完山の医療所へは遠方からも患者が訪れ、また往診では近郷はもちろん岩国、伊予松山まで出向く等、藩の内外に拘らない医療活動を積極的に行いました。

1820年、日本で初めてコレラが大流行します。
(幕末期に流行したものとは年代が別。日本では年代を分けて何度かコレラが猛威をふるっている。発症すると、ころりと人が死ぬためコロリとも呼ばれた恐ろしい病気)

この際には広島藩でも領内で感染が広がり、多くの死者を出しました。

完山はすぐさま流行地に赴き、実情を見聞し予防薬を生成。治療効果を確認したうえで、近村の村々へ薬を無料配布します。

予防薬の効果は確かにありました。

すると完山は、私財を投げ打って更に多くの村々に予防薬の無料配布を申し出たのです。

その数、賀茂郡22ヶ村に対して予防薬15552点。

どれだけの人命が救われたでしょうか?

完山はその後、1837年に飢饉が起きた際にも同様の施薬を行いました。
また、自宅に無料宿泊所を設けて難渋している旅人に寝食や薬を無料で提供しており、利用者は年間600人は下らなかったと言います。

そんな完山の医学的知見と名声を見込んで、広島藩から藩主の病状の治療法について意見を求められることも有ったそうです。

また熱心な教育者でもあった完山は、恭塾という名の私塾を開設し、主に医学と儒学(中国の思想家孔子の教え)の講義を行い後進の育成に力を注ぎます。

1840年に完山が亡くなるまで、彼に教えを乞うた門弟は全国津々浦々から集まり437人に上りました。

野坂完山の一生を簡潔にまとめてみましたが、このような方が同郷に居られたという事は非常に誇りであり、新しい発見でした^_^

○引用、参考