「目の前の世界は自分が作っている。」

 

この言葉、「確かにそうだ」とわかったような感じがしつつも、イマイチ理解できずにいた。

 

 

だが最近、

ふとしたタイミングでスーッと理解できた。

 

 

「目の前の世界は『自分のジャッジ』が作っている。」

 

これ。

これでスーッと腑に落ちた。

 

 

目の前の世界のアレコレ、ヒト、モノ、コト。

すべて見た瞬間に「自分のジャッジ」が入っている。

 

ジャッジが入ってるから「それ」と認識できる。

見知らない何かについても「見知らない何か」と認識(ジャッジ)している。

 

見知らない何かですらそうなのだから、見知っている何かについては

おそらく相当な数のジャッジが入っている。

それも瞬間的に。

 

 

目の前のアレコレは、ただの事物。

その事物におそらくは書き出したら相当におよぶ何らかのジャッジが入っている。

 

つまりは自分が作っている。

自分のジャッジで作っている。

 

 

そして、

 

そのジャッジは「それ以前の過去の経験」により作られている。

その経験の時に「自分が認識したイメージ」で作られている。

 

 

実際「その通り」のものもあるだろうし、

「過去の経験がそうだったから、それに似たこのモノコトも同じだろう」

というジャッジもまたあるだろう。

たくさんたくさん。

 

それが慣れっこになってしまって、

ジャッジだらけで作ってしまっているのが「今目の前にある世界」

 

 

「目の前の世界は自分が作っている」

とは、

 

「目の前の世界は『自分のジャッジ』が作っている」

こと

 

 

良いか悪いかは別にして(それもジャッジ)、

自分の中の「何か」が目の前の世界を作っている。

(「意味づけている」と言ってもよいかもしれない)

 

 

今、目の前の世界が「生きづらい・・・」のであれば、こうしてみよう。

 

 

目に入ったモノ、コト、ヒト、に対して、

「本当にそうか???」

 

そうやって自分に問いかけてみる。

 

 

本当にそうか??

自分で勝手に意味づけしていないか???

フラットな眼で見ていないのではないか????

まだまだ見れていない何かがあるんじゃないか?????

 

 

そうやって、

自分自身の世界をアップデートしていこう。