音を、
音階や音波の流れを追って、覚え、
足していくこと(=話すようにしていくこと)で、
母国語とは違う 別の種族の人々がコミュニケーションツールとして
活用している・してきた
新たな言葉を
自分達も話すことが出来るんだ・・・・!!!
この画期的な発見は、
よほど
隔離された環境の人間でない限り、
自ら気づけると思います。
◇には 言語が、ある形のフラスコに入った
液体と同じように視えます。
透明で大きめのフラスコ瓶の中で、
液体の言語は、
動き狂っており(波打っており)、
チャプチャプ
水はねを繰り返すのです。
つうじょう。
外国の方々が一同に返す場所なんかで、
しじゅう、耳栓をしているわけではない◇は、
数多の情報というか、映像の霰を視界に受けます。
それは、影のように平面状に鏤めつけられるような
景色です。
また、変わった言い方ですが、
人間の瞳は、縦についており、
それは眼球の中央にあって、
平面のものも、そのもの・そのままとして
見られるようになっていますよね。
◇にとって、
日本語も含め、言葉を話す人達は
だいたい、
・口の外に飛び出していって、
どこかへ・・・シャトルのように突き抜けていく光りか、
・口の中で消えてしまう光にもならなかった音か、
・出て行ったものの、距離がなく、モヤモヤと停滞して
蒸発して立ち上っていく音だか光だか雨か
よくわからないもの・・!?
だったのか・・・・。
の、
どれかです。
◇はこうした誰にもいえなかった悩みを、なんとかして、
形にしておきたい・残しておきたい、と強い願いに変わった頃から、
色々とライティングするクセがついていました。
最もその方面に対して敏感だった、高校生の頃、◇は
ある 物語 の中に、『 言語の棚 』という題名の短編を書いていました。
その棚には、たくさんの種類の言語が
1つ1つラベルをつけられたフラスコが棚一面に
敷き詰められており、
ふしぎなことに、地震や自然災害があって家が揺れても、
棚に入ったフラスコ瓶たちは
視てのとおり
日頃の揺れと同じように、チャプチャプと波打つだけで、
特に変化がないのです。
この複数のフラスコ瓶をめぐって、一様に騒動があるのですが
◇もなんだか、自分の視界に頼るばかりで、
ラストまでの流れを視続けることや
文章化していくのが疲れてしまったことから、
付き合うのをやめてしまい(手放してしまい)、
結局書き損ないのままです。
当時はブログという言葉があったかも記憶にありませんが。
◇には、自己の成長や教育機関からの決別などで
こういう場所が出来てよかったのです。
卒業して1・2年は
常にマイナスの空気や音を発していたクラスメイトや
関わった人達の名前を忘れるのに苦労しました。
その後、年が経つにつれて
どんどん良い環境や場面、
あたたかくてシャープな人々に恵まれていくと
すっかり、過去の人達の事は忘れられました。
めでたし。
めでたし。
◇