定義
普通に寝る
普通に食べる
普通に笑い。時に泣く。
普通・・・普通ねっと・・・。
普通ってなんだ?
普通ってなんだろうと
改めて調べてみたら
「特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。
それがあたりまえであること。また、そのさま。」
ふ~~~ん。
特に変わっていない何ともない日々の幸せって
何かおきた時にこそ強く感じるもの。
そしてよっかかれるもの。
この定義を裏返せば
あたりまえの事があたりまえじゃなくなる事は
普通じゃない という事。
普通ってもんは、それこそが幸せなんだよなぁ。
普通じゃない。
それでも日常生活をこなしてく
そんな日々を過ごしてくうちに
今の在り方が普通になっていく感覚。
そんな感覚が嫌になる。
普通。
今のままが普通になるのは怖い。
だからもっと違う普通を自分で定義づけて
普通をぬりかえていきたい。
きっとそうやっていこうとするからこそ
普通ってやってくるんだと思う。
できるよになった
今年も師走。
以前ブログにも書きましたが
この季節がそもそも好きではありません。
あわただしく一年を締めくくろうとする感じが
せわしなく落ち着きません。
それでも今年は逆に早く締めくくりたいという気持ちが強いです。
土曜日の晩から法事で大阪に帰ってました
久しぶりに息子に会えた(-^□^-)
息子は身長、体重ともにぐんぐん成長しており
歯が2本はえてきました。
何より嬉しかったのは
帰ってすぐに顔を見に行ったら
【はいはい】で僕のもとまで近づいてきてくれて
僕の足をにぎってくれました。
我慢しきれずにすぐに抱っこしましたが
たくましい子です。
お尻をふりふりしながら頭と手を不器用に使いつつ
はいはいできるようになりました。
離乳食も始まりました。
ただいま
息子と会った週末
息子をできる限り抱っこした結果が腕の筋肉痛です。
心地よいです。
以前より本当に大きくなりました。
ララァとカフは元気です。
2ニャンでいるからこその元気だろうと思います。
それでも彼女達もいろいろな変化にとまどいはあるようですが・・・。
写真はi-phoneでしか撮ってません。
というか最近撮ってないなぁ。
でもあまりそのような気分にはなれないのが本当のとこですがね。
もう少し落ち着いたらいい写真が撮れるかなぁ。
私ごとではあるけれど
これまでのララァとカフのブログは僕と奥さんのブログだった
当然ながら文章の端々に僕と奥さんの感覚がいきている
かすかな生活の一片一片が溢れている。
これまでの読者の方が望んでいるようなブログでありたかったと切に思う
でも、無理かもしれない
奥さんが病気で亡くなった。
本当ならば友人・知人に報告をするのが義務であるが
それもまったくといってできていない。
じゃ、なぜブログ?という事なんだがそれは自身正しくは理解していない。
それでも何か行動する事で突破口を探しているんだと思う。
時は流れている。流れていく。
経つのが早いと思う時もあればひどく長く感じる時もある。
気持ちが前向きな時もあればひどく苦しい時もある。
ひどく寂しい時もあればイライラしっぱなしな時もある。
情緒を安定さす為にカウンセリングをうければと進められた事もある。
でも、しなかった
人が亡くなるとそれにまつわる手続きが大量に訪れる
理解したくない手続きが延々と押し寄せる
それでも行動におこさないと許してはくれないし生きていけない。
(生きてはいけると思うが、止めていたら気持ちは落ち着かない)
だから一つ一つの事を整理もつかないまま高速のスピードでこなしていく
(きっともっと処理速度の早い人はたくさんいると思うが・・・)
窮地に追い込まれた時に、この世でもっとも頼りにしていた人がいない
その中で「究極の選択」と思われる選択を次々にしていくそんな気分。
僕がカウンセリングを受けなかったのは自分の選択は自分でする(したい)
という意地でもあり変なプライドなのだろうと思う。
そんな僕だが救われた言葉はある。
それは 逃げる事。
面と向かい続けて立ってられない時、苦しい時こそ逃げる事。
いたってシンプルな方法だし、便利な言葉である。
逃げ方は十人十色。様々な逃げ方はある。
考えるのを止めて休むという事。動けるように食べる事。何より寝る事。
自分自身をいたわる事って案外難しい。
最低限の人としてのルールだけ逸脱しないように逃げる。
これが最も重要なポイント。
自暴自棄になるのは簡単だが最低限の生活を確保する為に必要な事まで放棄しては
それこそダメだという事。
僕は様々な手続き、大きな山をひとつ乗り越えここにいる。
大きな山はまだまだある。
これまでは幸せに生きていて「見ていない」「見て見ぬふり」してただけで
問題はたっくさんある。
ひとつはっきりしてるのは一人で背負ってきた荷物を二人で分かちあったが、
また一人で持たなくちゃならないって現状とその荷物は重かったってこと。
そんな荷物を小分けにして持とうとしてくれる両親が今いること。
ララァとカフがいるということ。
何より奥さんにそっくりの息子がいるということ。
遅くとも前向いて歩いていかなきゃならないということ。
当然ながら文章の端々に僕と奥さんの感覚がいきている
かすかな生活の一片一片が溢れている。
これまでの読者の方が望んでいるようなブログでありたかったと切に思う
でも、無理かもしれない
奥さんが病気で亡くなった。
本当ならば友人・知人に報告をするのが義務であるが
それもまったくといってできていない。
じゃ、なぜブログ?という事なんだがそれは自身正しくは理解していない。
それでも何か行動する事で突破口を探しているんだと思う。
時は流れている。流れていく。
経つのが早いと思う時もあればひどく長く感じる時もある。
気持ちが前向きな時もあればひどく苦しい時もある。
ひどく寂しい時もあればイライラしっぱなしな時もある。
情緒を安定さす為にカウンセリングをうければと進められた事もある。
でも、しなかった
人が亡くなるとそれにまつわる手続きが大量に訪れる
理解したくない手続きが延々と押し寄せる
それでも行動におこさないと許してはくれないし生きていけない。
(生きてはいけると思うが、止めていたら気持ちは落ち着かない)
だから一つ一つの事を整理もつかないまま高速のスピードでこなしていく
(きっともっと処理速度の早い人はたくさんいると思うが・・・)
窮地に追い込まれた時に、この世でもっとも頼りにしていた人がいない
その中で「究極の選択」と思われる選択を次々にしていくそんな気分。
僕がカウンセリングを受けなかったのは自分の選択は自分でする(したい)
という意地でもあり変なプライドなのだろうと思う。
そんな僕だが救われた言葉はある。
それは 逃げる事。
面と向かい続けて立ってられない時、苦しい時こそ逃げる事。
いたってシンプルな方法だし、便利な言葉である。
逃げ方は十人十色。様々な逃げ方はある。
考えるのを止めて休むという事。動けるように食べる事。何より寝る事。
自分自身をいたわる事って案外難しい。
最低限の人としてのルールだけ逸脱しないように逃げる。
これが最も重要なポイント。
自暴自棄になるのは簡単だが最低限の生活を確保する為に必要な事まで放棄しては
それこそダメだという事。
僕は様々な手続き、大きな山をひとつ乗り越えここにいる。
大きな山はまだまだある。
これまでは幸せに生きていて「見ていない」「見て見ぬふり」してただけで
問題はたっくさんある。
ひとつはっきりしてるのは一人で背負ってきた荷物を二人で分かちあったが、
また一人で持たなくちゃならないって現状とその荷物は重かったってこと。
そんな荷物を小分けにして持とうとしてくれる両親が今いること。
ララァとカフがいるということ。
何より奥さんにそっくりの息子がいるということ。
遅くとも前向いて歩いていかなきゃならないということ。