小さいときに、親から勉強を強いられる。
または、親から塾に通わされる。
こんな経験がある人は、

なぜか学力はそんなに高くない。
そして何より、勉強以外の勝負場所を知らない。




これは、「確かに」と思う人が多いでしょう。


子どもにとって親は、価値観が作られる上で一番の影響力を持ちます。

親の言動が、子どもの見方、考え方を作っていくのです。


そんな親は、子どもをみるものさしを出来るだけ数多くもつ必要があります。


例えば、子どもが
「虫がすき」「工作が得意」「サッカーが上手い」「元気がいい」「勉強が苦手」
などの特徴をもっていたとします。


そんな子どもの特徴を価値付けてあげること。
「虫博士やなー、すごいなー!」「これすごい上手!やるなぁ!」「サッカーだけは誰にも負けんなぁ」「うるさいけど、元気が一番!」
などというように、その特徴を、「よさ」として認めてあげる。
すると、子どもは、勉強が出来ないことなど、自分の特徴の一つなんだ、ととらえることができます。


しかし、親がこどもをみる「ものさし」を学力や勉強にしか見いだしていない場合…

子どもが勉強ができなければ、
「なぜできないの?」
テストでいい点を取ったときだけ
「よくやった」
とほめます。

すると、子どもはただ「勉強」のみに、自分の価値を見いだすしかなくなります。

子どもは「勉強」以外で自分のよさを見いだせないので、「勉強」で勝負するしかなくなります。

そんな、外発的な理由で勉強しても、のびるはずがありませんね。

そして、「よさ」を認められてきた、サッカーもうまくて、楽しくて、勉強もできる人たちに、圧倒的な劣等感を感じることになります。

このようにして、人生の充実感はどんどん差が開いていきます。

「よさ」を認められてきた人は、自己肯定感をもち、
どんどん自分の好きなことに挑戦し、失敗し、楽しく生きていきます。


「勉強」にしか価値を見いだされなかった人は、勉強、地位などにとらわれ、それがうまくいかないと、さらなる自己肯定感の低下を引き起こします。負のスパイラルです。
うまくいっても、結局、限界がきます。




今、子どもを勉強が出来る、出来ないのものさしでしか見られない親や大人が増えている気がします。

なんとか、子どもたちに、いろんな「よさ」を価値付けてあげる。

それが僕たちの仕事だと思います。

僕は悪口をいう人が嫌いです。
とくに、本人がいないところで、ここぞとばかりに陰口をいう人が大嫌いです。
たぶん、一番嫌いなタイプです。



結論から言わせて頂きます。
悪口は嫉妬、妬み、嫉みから来るもの以外ありません。


たとえば、クラスに容姿がそこそこよく、性格もよく、ひとあたりのよい女の子がいるとします。

その人に、ある日彼氏ができました。
すると、今まで仲の良かった友達が、本人の前では今までと変わらない態度をとるにも関わらず、陰でヒソヒソ言いはじめます。

よく見る光景ですね(笑)

「○○は八方美人やもんなー」
「○○君は性格重視なんやなー」
「人前で手つなぐなよ」
「○○実際顔だけやね?」
「あいつ彼氏できてノリわるくね?」
「実際○○君、あんまかっこよくなくね?」


こんなのは、まだ軽いものです。
ひどくなると、あることないこと好き勝手言います。
そのうち、無視など、八つ当たりを始めます。


醜いですねー…




要は、全部

「くそー、羨ましー!!!むかつくー!!」
ということです。



でも、自分は相手に叶わないと認めたくない。
羨ましいなんて言いたくない。

だから、相手のアラを見つけては、他の人に共有し、自分に少しでも勝っているところがあると安心する。

集団になると、なんか自分が優位になった気がしますもんね。


悪口を共有する
          ↓
相手の自分より劣るところをなんとか作り出す
          ↓
「自分は相手に負けてない」
          ↓
安心する


という流れですね。



負け組の傷のなめあい。

それが悪口です。



たちが悪いのが、本人たちが自分の嫉妬に気づいていないことです。

気づきたくないのです。

集団でいるので、自分達をかんたんに正当化出来ます。






僕は、悪口を言わない人が好きです。
なぜかというと、自分に自信を持っているからです。

ブサイクでも、背が低くても、声がキモくても、足が臭くても、面白くなくても…

何か自分にはいいところがあると誇れるものがあります。

そんな人は、人の悪口など絶対に言いません。
むしろ、どんな人でもいいところを見つけます。
謙虚で優しいです。
自分は自分、相手は相手のいいところがあると、自分や人を大切にします。


健全な自己肯定感をもつことは、人を大切にすることになるんですね。





なんかまとまらなくなりましたが、皆さんはどう思われますか?







適当なシメかた(笑)





小学校のときなど、よく戦争を体験したおじいちゃんおばあちゃんが、教室にお話をしにきてくれました。

自分のおじいちゃんおばあちゃんに、戦争の話を聞くことも多かった気がします。

そんな真剣な話を聞くなかで、幼な心ながら、「戦争って、すごく怖い」「絶対に経験したくない」と、感じていたような。

それだけ、彼らの話や表情に生々しさを感じたのでしょうね。


そして今でも、ビール片手に昔のことを語るじいちゃんの隣で、「絶対に戦争はくりかえしてはならない」と、考えさせられます。


それとともに、そんな時代を必死で生きた彼らが、僕たちの今を作ってくれているのだな。と感謝の気持ちでいっぱいになります。

僕たちに未来をくれてありがとう。なんて、心のなかでは思っていますよ、こんな僕でも(笑)


そんなじいちゃんやばあちゃんはもう80歳を越えています。

今まで当たり前に近くにあった、戦争体験者のお話。

でも、よく考えると、そんなお話が聞けなくなるときがくるんですよね。

今まで子供たちや僕らに戦争の怖さ、残酷さを教えてくれた人たち。

そんな人が一人もいなくなるときがくるんです。



今、集団的自衛権のことなど、日本がこれから戦争に向かっていってしまうことを懸念する声が数多くあります。


集団的自衛権を認めること自体が、戦争の可能性を広げるかどうかと言われれば、実際わからないと思います。安部さんらも、平和を一番に考えていることは確かですから。

でも、「戦争は絶対に許さない」といった心をもつ、その声を届ける。そのことに、意味があると思います。


それは、戦争体験者が、僕たちに戦争の怖さをを教えてくれたから。

彼らがいなくなって、誰も戦争を語り継ぐ人たちがいなくなったら…

戦争なんて、アニメや本と同じような、別世界の話になってしまいます。





そうです、戦争を語り継いでいかなければいけないのは僕たちなのです。

直接戦争を体験したわけではありません。
怖さなんて、経験した人のこれっぽっちもわかってないと思います。

それでも、語り継がないと!



語り継いでいくためになにができるか。
戦争体験者がいなくなる前に、しっかり考えていく責任が僕たちにはあるんだと思います。