編入学・大学院入試・大学入試予備校中央ゼミナール 文系講師ブログ

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 社会心理学の一派に文化心理学があります。名前の通り文化差を研究している領域です。この文化心理学の有名な概念に相互独立的自己観と相互協調的自己観があります。相互独立的自己観とは、典型的には北米の白人の概念であり、自己が周囲の他者と切り離されているという認識です。一方、相互協調的自己観とは、自己を他者や関係と切っても切れない関係にあるという認識です。日本人にとってはこちらの方がなじみ深い概念でしょう。

 この2つの概念はある大学の編入試験の問題で、「よく知られているように」という前置きで問題文に示されたことがあるので、用語として押さえておいたほうがいいでしょう。しかし、試験に出る出ない以上に、文化心理学は欧米を中心に発展してきた心理学一般の知見が他の文化でも当てはまるのかという非常に重要な問いを提起することから興った領域です。この問題意識を持って海外の学者の概念や議論を読んでみると、違った見方ができるようになるかもしれません。

増井先生
 こんにちは。みなさんはロマンシュ語という言語を知っていますか。多くの人は知らないと思います。私も大学院で言語学に携わるまで、この言語について知りませんでした。この言語は極端に話者が少なく、ヨーロッパ連合及びスイス政府によって近いうちに消えていく言語(危機言語)に指定されています。今日は、みなさんにはロマンシュ語を通して、それに付随する問題について少しでも考えて頂ければ幸いです。

 ロマンシュ語とは、スイスの公用語の一つです。スイスでは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の四つの言語が公用語として法の下で制定されています。四つの言語の人口の割合は、前の文章で示した通り、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の順に多いです。ドイツ語の話者が一番多く、スイスの人口に対して約三分の二ほどですが、ロマンシュ語の話者はスイスの人口に対して1パーセントもいません。

 さらに、ドイツ語はスイス国内のみではなく、ドイツやオーストリアなどで話されていますが、ロマンシュ語はスイス国内で話されているのみで、他の国では全く話されていません。ロマンシュ語の総人口は5、6万人で、話者の多くが60歳以上と高齢なので、近い将来に消え失われる言語であるとされています。

 言語が失われることで、どのような問題があるのでしょうか。大きく分けると、二つの考え方があります。一つ目は、言語は自然と生まれ自然と消えていくものであるから、人為的に守っていく必要はないという考え方です。他方、言語は固有の文化と強く結び付いているため、私たちがその文化の多様性を失わないために、人為的に守っていく必要があるという考え方です。

 私は後者の考え方に基づき、ロマンシュ語を後世に少しでも残していきたいと考えています。私は世界中のみんながメジャー言語(英語、中国語、スペイン語)のみを話す世の中なんてつまらないと思うからです。前の文章で少し触れたように、言語は固有の文化と強く結び付いているため、その人の行動様式にも影響を与えます。したがって、みんながみんな同じ言語を話すことによって、単一で個性のない世界になってしまうのではないかと考えています。みなさんはどう思いますか。


坂口先生

 人は、人生の様々な場面で、主体的に自らの行いを為すことを求められます。自分自身の行為の主体として、その行為に責任をもつことは、人が人として生きていく上で外すことのできない制約の一つではないかと思います。この制約は、足枷として行為を制限すると同時に、行いの指針として行為を衝き動かすものともなります。それゆえ、主体的に行為することは、人生を左右する重要な要因となり得ます。それでは、人はいかにして主体的に行為することができるのでしょうか。

 ドイツの哲学者J.G.フィヒテは、人が主体的に行為するには、その行為の意識が必要であるとします。たとえば、「水を飲む」という特定の行いを為す人間は、自分が水を飲もうとすることと自分が水を飲んだこととを意識しています。人は自らの行為を何らかの仕方で常に意識しているものです。それゆえ、自らの行為の意識がなければ、人は行為主体ではなくなり、単に運動するものであることになってしまいます。

 さらにフィヒテによると、その行為の意識には「考える」という働きが密接にかかわっています。たとえば、自分が水を飲むことを意識することができるのは、それを飲むのが他人ではなく自分であること、それがお茶ではなく水であること、さらにはそれを捨てるのではなく飲むことを「考える」ということ介してのみです。自分が水を飲むことは、それ以外の可能性(例えば自分が水を捨てる、あるいは、自分がお茶を飲む、等々の可能性)を常に考えていなければ、明瞭に意識されることはありません。このように、他の可能性を「考える」という働きがあることによって、行為は明瞭に意識され、人は自らの行為の主体となることができます。「自分が水を飲む」ということが、それ以外の行為の可能性を考えることにおいて明瞭に意識されてはじめて、人はその行いを自らが為していることとして引き受け、その行為の主体となることができるのです。

 このように、主体的に行いを為すには、その行い以外の可能性を考えることが最も重要なことであると言えます。さまざまな行いの可能性を考えることにおいてはじめて、自らの行いを為すための指針が現れてきます。さまざまな可能性の中から大学院入学や、大学編入を選択するという新たな行いを為した皆さんの内には、その指針が既に現れているのではないかと思います。その指針こそが、皆さんが自らの行為によって最初に手にしているものです。手にした指針を信じて、自らの行為を最後まで続けてみてください。

古川先生