私たちは、、
肉体的な身体を持っている。
それは目に見え、
触ることが出来て、
自らに五感がはたらく。
二百年前は、
電子顕微鏡もなく、
CTもMRIも無かった。
キリスト教が此の世の中心、
マルクスが産まれたロシアでは
物質的な判断に陥りやすかった。
そして、、
宗教弾圧に挟まれたマルクスは、
その怨みから
『唯物論・無神論を基幹とする思想・共産主義を産んでしまった』
残念なのは、
そばに釈迦族の釈尊の教えがなかったこと。
釈迦族の王の家に産まれ、
地位と名誉とあらゆる財産に恵まれたハズの釈尊は、
其処に本質を見なかった。
全てを棄てて物事の本質がどこに在るのか探求する道を選んだ。
形のどこに本質が在るのか。
無の世界を探った。
自らの煩悩と対峙しながら。
イエスを十字架に架けた人の間違いは、
キリストが空から降りてくると堅く信じていた。
そこにみすぼらしく人の姿をしたイエスが現れた。
形だけを見て、人は十字架に架けてしまった。
聖職者と十二使徒はイエスを形だけを見て裏切った。
十二使徒はイエスの再臨で、
改めて新約聖書を書いたが、
そのどこを見ても、
形だけを見てイエスを十字架に架けた自らの罪を心から悔い改めた文は無い。
キリスト教が今日まで抱える罪が其処に在る。
西洋文化の特徴と拭いきれない十字架である。
釈尊とイエスの対称的な体質。
そのキリスト教を怨み、
産まれたのが唯物論・無神論の共産主義思想である。
果たして、
幸せは、どちらがもたらすのか、
明白です。
『反戦・反核・平和活動』を唱える
今日の世界で、
唯物論・無神論者の口からは、
怨みしか生まれない。