だが之は何もブルジョア新聞がブルジョア・イデオロギーによって自由を束縛された機関でない[#「ない」に傍点]ということを意味しはしない。ブルジョア政府とブルジョア新聞は、同じくブルジョアジーのものであっても、名が別な通り別である。この別な二つのものの間に、対立が存在し得るということは少しも不思議ではない。ブルジョア新聞に対する検閲――それは内務省発表の最近の統計によると近年急速度に緩和されて来た――は、そういうささやかな対立の一つの場合にすぎない。それよりももっと根柢的な新聞の自由の束縛者は、新聞の読者[#「読者」に傍点]――公衆[#「公衆」に傍点]――なのである。これこそ本当の検閲官だろう。処が読者大衆自身は、云って見れば読まされるものを何でも読むような、無定見者に過ぎない。で、彼等を検閲官に仕立てるのは彼等自身ではなくて彼等が共有するイデオロギーなのである。ブルジョア新聞の自由はこのブルジョア・イデオロギーに束縛されているのである。検閲による自由の束縛などは之に較べては問題にならない程小さい。ブルジョア新聞は無論この不自由を不自由として自覚しない。元来ブルジョア・イデオロギーというものがイデオロギーとして自覚される場合が少ないものなのである。それに、このイデオロギーの生産には元来ブルジョア新聞自身が与っていた。夫はブルジョア・イデオロギーの機関であった。
