あなたの「察する」は、一種の才能ですよ。
と何人かに言われたことがある。「アイドル性」と呼ぶ人もいた。「偽善」と呼んで私を苦しめようとする人もいた。
父は、一言「そんなサービスしなくてもいい。」と言った。母は、私にヤキモチを焼いた。
私は、その「場」で両親の苦しみを察してその苦しみを請け負うことで生きてきた。
人とのコミニュケーションを必要とする中で察するという事がある。
場の空気を読んで道化になったり、諭したり、寄り添ったり、相手がその場が何を望んでいるのか何となく察するのだ。それが愛だと思っていた。
相手が答えてほしい回答や言ってほしい言葉掛け、態度を自分の意に反して瞬時にできてしまう。
そして、思うようにその『場』を私が『動かす』のだ。
頼まれていなくても。だ。
ただそれは、その『場』が和むようにように何とかしなくては。という感情に基づいて、勝手に反応していただけに過ぎない。
大抵のその『場』は、争いや攻撃の場である。
『わたし、魔法が使えるの(笑)』そんなイメージだった。なぜ偽善に見えるのかわからなかった。間違っていないと思っていた。正しいことをしているつもりだった。
結婚して子供もできてさらにそのまま察し続けて、更年期に差し掛かると自分が無くなった。どうすればいいのか、どうしたいのか全くわからなくなったのだ。察することで悪循環が生まれ、そして家庭は暗雲立ち込め、笑顔が消えた。
育ってきた環境が大いに関わって居るのかもしれない。人の望みばかりでなく自身の身体や心に望みがある。楽しいと思っていいのだ。嬉しいと思っていいのだ。愛するばかりでなく愛されていいのだ。
そこに気付くまでに46年かかった。そしてその呪縛から抜け出すまでに4年かかった。
自分、相手、周り、環境の順に大切にすること。
そうすれば依存ではなく、バランスの取れた心身共に健康な人になれるはず。
しかし、相手や環境を思い計るばかりに自分を忘れてしまい、バランスを欠いて居ることに気づかない。
これでは、心身共にヘトヘトになってしまう。だからと言って、まず自分まずこちらから。私、私、では、環境はさらに悪化する。
察するという依存から抜け出すのだ。
見守ることは、愛である。
自分を大切にする時に伴う痛みがある。
相手を大切にする時に見守る痛みと同じくらいの痛みがある。その痛みを感じてでも自分を思い、相手を思い、さらに環境を思い計る。そこでやっと自立するということができるのではないかと思う。
自分を大切にして相手を見守る痛みから逃げていては、愛すること、愛されることがわからなくなり、ひとりの「人」として自立することは難しい。