先日ようやく「ラスト、コーション」つまり李安監督の《色・戒》を観た。
見たのは日本版。
TSUTAYAでレンタル。
上映時間158分、R-18指定。ボカシあり。
ボカシはもちろん性器。と言っても、仰向けのトニーレオンの「蛋蛋」である。
日本の映倫も、こういうボカシはもうやめてもいいような気がする。
映画館の係員がアメリカみたいにちゃんと厳しく年齢制限すればいい。
さて、日本版は台湾版、香港版同様「ノーカット」を標榜している。
US版は「R」と「NC-17」があり、
「R」は17歳以下は親同伴、「NC-17」は17歳以下は鑑賞禁止、ということらしい。
こちらもノーカットのようだ。
台湾版か香港版のDVD(特別版?限定版?)には、予告編やテレビCM、ポスター、スタッフ紹介とか、
撮影中の写真などが入っているらしいが、
私が観たDVDにはそういうおまけは一切なしで、悲しかった。
この映画についてはたくさん批評がネットにある。
一部は当ブログ「「ラスト、コーション」への論評」(08年1月)に書いておいた。
そのあとで読んだ記事で一番へ~と思ったのが、
香港版でも削除された場面がベネチア映画祭の際にはちゃんと放映されたと言う記事。
いわゆる「ノーカット」版でさえ削除されたというのは、
トニーレオン演ずる易が、抗日派の女スパイを拷問する場面で、
その女スパイは、全裸でかつ頭などから鮮血を垂れ流していたという。
http://ent.big5.enorth.com.cn/system/2007/11/30/002416212.shtml
個人的にはこのシーンがあったほうが、易の偏激な人間性をより立体的に描けたのではないか、
と思うが、確かに、誰もが見て楽しめる場面と言うわけではない。
さて、バージョンの違いなどについてはさておき、作品としてどうだったか?いうと、
意外に渋い出来だったな、という印象だ。
後半の湯唯の表情がキーポイントだが、ネットのどこかで
(記録し忘れた!高樹のぶ子のブログだったような、今確認したらその部分がない・・・違ったか)
湯の性交の際の表情が必ずしも喜びに満ちた表情でないことが、作品を中途半端にしている云々・・・
と言う記事があった。
それはやはり違って、湯の表情がいまひとつ性の快楽に身をゆだねているわけでもなさそうなところ、
わずかに快感を押し隠すようなものになっているのは、むしろ、李安の狙い通りなのではないか。
結局、カタルシスもなく感動もない。
ただ、コンセプチュアルな思索へと人を導くだけだ。
それだけでも悪くは無いけど。
このあたり「現代アート」じみている。
賈樟柯の「三峡好人」(三峡エレジー)同様、ベネチア映画祭は、
最近めっきりこういう渋好みに傾いているような気がする。
見たのは日本版。
TSUTAYAでレンタル。
上映時間158分、R-18指定。ボカシあり。
ボカシはもちろん性器。と言っても、仰向けのトニーレオンの「蛋蛋」である。
日本の映倫も、こういうボカシはもうやめてもいいような気がする。
映画館の係員がアメリカみたいにちゃんと厳しく年齢制限すればいい。
さて、日本版は台湾版、香港版同様「ノーカット」を標榜している。
US版は「R」と「NC-17」があり、
「R」は17歳以下は親同伴、「NC-17」は17歳以下は鑑賞禁止、ということらしい。
こちらもノーカットのようだ。
台湾版か香港版のDVD(特別版?限定版?)には、予告編やテレビCM、ポスター、スタッフ紹介とか、
撮影中の写真などが入っているらしいが、
私が観たDVDにはそういうおまけは一切なしで、悲しかった。
この映画についてはたくさん批評がネットにある。
一部は当ブログ「「ラスト、コーション」への論評」(08年1月)に書いておいた。
そのあとで読んだ記事で一番へ~と思ったのが、
香港版でも削除された場面がベネチア映画祭の際にはちゃんと放映されたと言う記事。
いわゆる「ノーカット」版でさえ削除されたというのは、
トニーレオン演ずる易が、抗日派の女スパイを拷問する場面で、
その女スパイは、全裸でかつ頭などから鮮血を垂れ流していたという。
http://ent.big5.enorth.com.cn/system/2007/11/30/002416212.shtml
個人的にはこのシーンがあったほうが、易の偏激な人間性をより立体的に描けたのではないか、
と思うが、確かに、誰もが見て楽しめる場面と言うわけではない。
さて、バージョンの違いなどについてはさておき、作品としてどうだったか?いうと、
意外に渋い出来だったな、という印象だ。
後半の湯唯の表情がキーポイントだが、ネットのどこかで
(記録し忘れた!高樹のぶ子のブログだったような、今確認したらその部分がない・・・違ったか)
湯の性交の際の表情が必ずしも喜びに満ちた表情でないことが、作品を中途半端にしている云々・・・
と言う記事があった。
それはやはり違って、湯の表情がいまひとつ性の快楽に身をゆだねているわけでもなさそうなところ、
わずかに快感を押し隠すようなものになっているのは、むしろ、李安の狙い通りなのではないか。
結局、カタルシスもなく感動もない。
ただ、コンセプチュアルな思索へと人を導くだけだ。
それだけでも悪くは無いけど。
このあたり「現代アート」じみている。
賈樟柯の「三峡好人」(三峡エレジー)同様、ベネチア映画祭は、
最近めっきりこういう渋好みに傾いているような気がする。