長く大切に使い続けているものある?

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お母さん今日は”ごみゼロの日”だそうです。これはおそらく「ゴ⓹ミ⓷ゼロ⓪」という語呂合わせから設定され大切なと思います・・・たぶんね(;^_^Aツ地球温暖化や海洋汚染問題にとっては大切な日だですよね地球どんな日かくわしいことはいつものごどくちぃとばかしググってみますビックリマーク【日付は「ご(5)み(3)ゼロ(0)」と読む語呂合せから。

1975年(昭和50年)に愛知県豊橋市で市民運動として「530(ごみゼロ)運動」が始まったことを契機に、この運動が各地に広がった。1985年(昭和60年)7月に運動10周年を記念した全国大会が開かれた際、毎年5月30日を「530の日」とする宣言がされた。

1982年(昭和57年)に関東知事会の空き缶等問題推進委員会(現:関東甲信越静環境美化推進協議会(関東11都県))でも5月30日を語呂合わせで「ごみゼロの日」(関東地方環境美化運動の日)とし、「ごみゼロ」を推進するために「お掃除の日」を制定した。

環境美化運動の一環として「ごみゼロの日」は全国的に広まり、1993年(平成5年)に厚生省(現:厚生労働省)がこの日を初日とする5月30日~6月5日を「ごみ減量化推進週間」に制定した。この期間は「ごみ散乱防止強調週間」にもなっている。

また、一般社団法人・日本電機工業会の掃除機委員会では、掃除機を活用した掃除をして「ごみゼロ」を達成してほしいと、1986年(昭和61年)から「お掃除の日」として実施し、1997年(平成9年)に「掃除機の日」に改称した。

2017年(平成29年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された記念日は、「530(ゴミゼロ)の日」となっている。その内容は、豊橋市役所に事務局を置く「530運動環境協議会」が制定し、「自分のゴミは自分で持ち帰りましょう」を合言葉に、豊橋市から全国に広まった「530運動」を通じて、「ゴミを拾うことでゴミを捨てない心を育む」ことを目的としている。

ごみゼロ運動

関連する記念日として、5月3日は「ごみの日」となっている。】ということでした。なるほど(〃'(ェ)’)o_彡☆ポム

豊橋市からはじまった環境運動が日本中に広まったというわけですね。そういえば昔はよく大人たちが町内会で駅周辺や町内をゴミ拾いして掃除していた気がします。今の時代はそういう清掃活動をしている姿とかあまり見かけないような気がします。σ( ・ω-;)ウーン…

でかなさんが長く大切に使い続けているものはといえば、東京時代の学生だった時に教科書やテキストの教材と脚本に関する本や筆記用具等文具用品を入れるスヌーピーが刺繡されたでっかいトートバッグを今は通勤用の制服とか入れる時とサイドバックとして使っていてかれこれ約10以上年ぐらいつかっています。大きく頑丈で色々入り使い勝手がよく可愛いし大のお気に入りで重宝してます👜ピ━─━v(★´v`★)v━─━ス!!!

そいでもって・・・ハイパー本日の気になったニュースはこちらです!

■「あだ名」「呼び捨て」は禁止、小学校で「さん付け」指導が広がる

※イメージです

鉛筆あだ名に限らず悪意がある行為はもちろん駄目だけれど、こういう子供時代の出来事を学校の都合でなんでも禁止にするのはどうなんだろうと疑問に思う部分もある。日本の場合、むしろいじめをするような子供に対するケアが圧倒的に足りないと思う。それにどんな事もメリットとデメリットがあり価値観や答えはいつも一つではない。悪い面があるから禁止にするのでは全てのものを禁止にするしかなくなってしまうし、禁止事項が絶対ではルールに従うことしかできない頭を使えない人間になってしまう。それとこういう事を大人が決めないとイジメって無くならないのかと思うと少し悲しくなるし、個人的にはこれは過干しすぎだとと思う。子どもは賢いから大人の前では良い子ぶる。人が見てないところでイジメるだろうし、こんなことしたところで大して変わらない。あと人の気持ちに寄り添えるような子どもに周りの大人が導くことが大切だと思うけど、問題のある親や教師もいるし呼び方だけ変えたところでどうにもならない。こういう事を大人が先回りしてやってしまうと、自分たちで問題を解決することが出来ない大人になりそう。結局は大人の責任回避のためであって子供のためにはならない。子供時代に出来る友人は、大人になってからの友人と少し違う。あだ名があることでぐっと距離が縮まることも少なからずあると思う。あだ名が悪いのではなくて、つける名前に悪意があるかどうかが問題で、そこに気づかせることが必要だと思う。それは子供本人と保護者の責任もある。多分、「学校で気づかなかったのか」とか、人間性を教育するはずの保護者が、自分の非を棚に上げて、学校や先生のせいにしているところもあると思う。確かにいじめをしていて止めないとか、互いの意見を聞いて互いに気づきを与える仲裁をしないなら、先生に問題があると思う。でも相手が嫌がるなら、この呼び名はやめようとか、自分で考える機会をはなから奪ったままの特殊な環境で大きくなった人間はどうなのだろうと思う。社会に出たら守りは無くなるのだから、言い方は正しくないかもしれないけれど社会的に問題のある人が多くなりそう。そもそも日本は「教育」というものを学校に委ねすぎだと思う。いじめなどの芽をつむためにあだ名や呼び捨てを禁止すること、無駄に児童生徒を縛り付けてきた校則を緩和していくこと、これは矛盾していると思う。校則はとにかく生徒間の差異をなくし問題を起こさないようにさせてきたもの。それを緩和しようとする一方で、呼び名に制限を加えるのは違うと思う。一律にあだ名、呼び捨てを禁止するのは繰り返しなるけれど思考停止につながる。変なあだ名を付けられて嫌で学校に行けない。両親が心配して先生に相談する。クラス会などで話し合い解決していく。大人になって問題にぶち当たり解決していくプロセスと同じだと思う。問題を回避ばかりしているから何も出来ない人間になってしまうのでは思う。あと教育は保護者はもちろん、地域の大人ができるようにするとか最近は親が教育できないことが多いから、ご近所とか地域のボランティアで子供を見守っていけるようなシステムがあれば良いと思う。スポーツ団とか一番わかりやすいし、あと職業体験とか高齢者と一緒に将棋するとかもっと地域の大人や会社、商店と子供が身近であって、大人から色々学べたらいいのにと思う。