掃除を始めるのに気合がいる場所は?
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「汚物掃除法」は、1900年(明治33年)に伝染病の蔓延を防ぐために制定されたもので、これにより、ごみ収集が市町村の事務として位置付けられた。「清掃法」は、汚物の衛生的処理と生活環境の清潔による公衆衛生の向上を目的として制定された。対象の汚物は、「ごみ、燃えがら、汚でい、ふん尿及び犬、ねこ、ねずみ等の死体」とされた。
1960年代になると、高度経済成長に伴って、大量消費、大量廃棄によるごみ問題が顕在化した。また、ごみ焼却場自体が公害発生源として、問題となってきた。1970年(昭和45年)の公害国会において、「清掃法」を全面的に改定する形で、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」(廃棄物処理法)が成立した。4月22日~28日は「全国環境衛生週間」となっている】ということでした。(。 ・д・)-д-)ふむふむ、なるほど
しかし昔の「汚物掃除法」といういい方は露骨すぎてかなさん的には少し馴染みにくいかもです。(Ⅲ-ω-)ズーン
でもってかなさんが掃除を始めるのに気合がいる場所は、やはりトイレです自分たち家族だけが使うならまだいいんですが、お客さんが来たときいつでも使っていいようにトイレは常に気お使って綺麗にしてます。フキフキ_/(´_`;/))オソウジ(((/;´ヘ`)/ ̄フキフキ
そういえば生徒が教室や学校を掃除する日本の掃除教育は世界で珍しく今では見本となっている国もあるようですね日本人にとったら昔からの当たり前のことなんですけどね。✧ド(*,,ÒㅅÓ,,)ャ✧
そいでもって・・・ハイ本日の気になったニュースはこちらです!
■通知表をやめた公立小学校、2年後どうなった? 子ども同士を「比べない」と決めた教員たちの挑戦
※イメージです
言い方悪いけれど正直言って校長先生の自己満足の極みだとおもってしまう。テストで点数という優劣は出るわけで、その結果、出来た人はやる気に、出来なかった人はもっと頑張る契機となると思う。教師もその結果によって各児童の教育指導をするわけですが、本来100点目指すべき指導が30点だった生徒はとりあえず50点を目指すことを良しとするわけで、出来ない子でも最初から100点を目指す指導を放棄すれば50点さえ取るのは難しい。このやり方は、本当に教員の質が良くなければ、最善の教育を最初から放棄することになりかねない。もちろん、学力より人格形成を重視する教育方針を徹底するならそうした学校はあってもいいのかもしれないけど、小学は良くても中高と続く厳しい学歴社会を考えると親はは心配になるはず。それと通知表は優劣をつけるとか、他の子と比べるためだけのもではなく、その学期その子がどれだけ何ができたかを一目でわかるためのものが通知表だと思う。特に学校生活とか見ることができない親にとっては、この子はこれが苦手でこれが得意、というのがわかる。家庭学習でもどれをやらせればいいかという目安になるものでもあると思う。先生が子供たちの優劣をつけなくてよくなったいうけれどものすごく大人の都合に子供やその保護者が巻き込まれている感じがする。自分がどのくらいできているか、を確認するためにも目に見える形のものは必要だと思う。客観的な評価が無いのは家庭としても不安になると思う。どうしても自分の家、自分の子供を基準に判断してしまうから親が知らない学校での行動や他の生徒と比べた評価は貴重な情報になる。「できる・できない」はその子の能力もあるので順位を付けるのはかわいそうという考えもあるけど、同時に「やる・やらない」の積極性や向上心を代わりに考えてあげないと緩々で無気力な子が増えそうにも思う。通知表を無くしてやる気を起こすのは先生の腕が余計に必要になる。通知表を無くしても先生は楽にならないし返って指導力を求められるしその機転が利かないクラスは生徒が緩んでしまわないか心配になる。幼稚園が自由な園風だと小学校に入って1時限座ってられない子が居るという話を思い出す。中学生になると成績表の有った子無かった子、お受験経験者など余計に複雑化してくると思う。評価の基準が統一されていて、それに対して人を評価するならば、それは公平な価値基準になるのでフェアだと思う。しかし各先生の嗜好によって微妙に影響が出てしまう評価軸には、損得がある。例えば、ある中学校では5が付きやすいが、ある中学校では付きにくいみたいなことが起こりかねない。あと思うのが近頃は競争させないとか、特定の子だけ表彰しないなどの観点から、運動会でも順位をたつけないとか賞を取っても全校集会で表彰しないといった学校が増えたように思う。しかし、成績の良い子は、何もしなくて良い訳ではなく、努力して勉強に取り組んだ結果である。スポーツもそう、音楽や、作文、絵など、どんな分野でも同じであって、この風潮は、頑張っている子ほどその努力を認めてもらえなくなってしまっているようで心配になる。