【半分、青い。】—再上京編④—


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311日、東日本に未曾有の大地震が襲った。最終回へと向かっていく『半分、青い。』でもその時は訪れ、最終週では東日本大震災の発生が描かれた。大きな災害があったとき、人々は、日常的には当たり前だと思っている家族や友人の存在を強く意識するようになる。鈴愛(も例に漏れず、仙台で看護師をしている友人の裕子と連絡が取れなくなり、彼女の安否が気になって仕方がなかった。しかし、鈴愛が胸につっかえたものを感じる一方で、娘の花野も問題を抱えていて、学校での粗相やいじめのことを鈴愛に隠し続けていたことが発覚するのだ。鈴愛は花野から相談されなかったことにショックを受けるが、律は「あの小さな頭の中で、整理がついていたかどうかはわかんないけど、カンちゃんは、カンちゃんなりにこれ以上、ママに心配かけちゃいけないって思ってたんじゃないかな」と鈴愛に伝える。いじめは言うまでもなく、過酷な経験である。それでも花野が黙っていたのは、震災をきっかけに友人を心配する母親のことを思った上での、娘としての気遣いなのだろうと思う。そうだとしたら、律には粗相やいじめのことを話せたとはいえ、花野の板挟みな心情を思うとあまりにも心苦しい。
 
イメージ 1鈴愛は「母親として失格や」と自責の念にとらわれる。自分の娘のことを守ってあげられなかった辛さを律に打ち明ける。ただ、そんな鈴愛に対して律は、「1人で頑張り過ぎんな」と声をかけた。こういう時に律の口から発せられる言葉は、いつも温かい。頑張りすぎるきらいがある鈴愛のことを理解している律の気遣いは、いくつになっても変わらない。
裕子の安否を心配する鈴愛。そんな鈴愛を気遣う花野。そんな風に花野に心配をかけたことで落ち込む鈴愛を思いやる律。皆それぞれ、誰かに対して気を配り、思いを寄せる。もちろん、実際の震災では心配どころの騒ぎではなく、大切な存在を本当に失ってしまった人たちがいる。だからこそ、震災を安易に語ることはできないと思う。ただ、少なくとも言えるのは、大震災が起きたときには、裕子を気にする鈴愛のような、安否を知りたくてもどうすることもできない人々が全国で溢れかえっていたということだ。
そして、そんな鈴愛のような人々の周りにはまた、その姿を気にかける人々もいた。
人間は天災に抗うことは決してできず、被災地のみならず各所にその被害は広がっていく。しかし、その大きくなる傷口を癒やすことが唯一できるのも他人を支える力を持つ人間なのかもしれない。
 
イメージ 2賛否両論がある裕子が死んでしまう設定は私個人的にはできればなかったらよかっとかもとも思います。でも現代までの鈴愛の人生を描くなら避けては通れない現実だから、鈴愛が裕子の遺骨抱いて泣くシーン描くことで震災に合われた方の哀しみと裕子が残した最後の言葉や動けない患者さんに寄り添い逃げなかったことで犠牲になり亡くなられ方の無念の想いを見ている私たちに伝えようとしたのではないでしょうか。あの震災ではだれもが心に傷を負い、傷軽い者が重い者を助けようとした。助けること、励ますことで、自分のできることを確かめて歩んでゆくしかない。そういう日々でした。誰も可納得する震災の描き方の正解は私にはわかりませんが。遺骨を抱くシーンや3羽の鳥が大空に羽搏くシーンに心奮え涙が止まりませんでした。はっきりと生死を映し出すことに心理的動揺する人もいます。私も胸が痛い。でも北川先生や番組スタッフはそういうことを避けないで描いた。この作品の信念をかんじます。それをどうとらえるかはその人次第で先生がテレビで「人が試される最終週」といった意味はそこなにあるのではないでしょうか