※「脳の中の過程」養老孟司著
51Pより抜粋

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音声言語は本来、
そのとき限りのものである。

それは言葉として、
明瞭な状況依存性を持っている。

だから、
お釈迦様、キリスト、孔子、ソクラテス

つまり、
お経、聖書、論語、対話篇

いずれも本人が、
何か書き残したわけではない。

他人に「生きる」ことを説くのに、
書物は無用である。

書物を書くことで
身を持って教え得る形式は
たかだか書物を
書くことくらいに過ぎない。

人が人として生きることに
「語る」ことは
含まれているであろうが

「書く」ことは、
孤独な作業に過ぎぬ。

それは、
夢を見ることに近い。

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僕はこの文章に出会い
感動した。

文章の言葉と会話での言葉、
現代で違いを重視しているだろうか。

その場限りの音声には、
気持ちがのりやすい。

対面なら表情や仕草、
服装や体調から近況も分かるかも。

文章は手書きなら気持ちが多少のる。
でも、デジタルは難しい。

文章を書く作業は、
自身の想像を表現する作業。

夢を見ることに近い。

読み手に渡れば、
作者の手を離れる。

読み手の知識、想像力に
文章への意味付けを
託さなければならない。

「生きる」を説くのに、
書物では伝え切れない。

文章だけで読み取ろうとするなら
その言葉を発した者と
同じ体験をして
同じ考えを得なければならない。

つまりは
「伝えきれない」

しかし、読んだ人の
キッカケになってくれる。

文章で理解できるはずと思えば、
相手に腹が立ってしまう。

言葉は「キッカケ」

伝えたければ、
その人と共に歩むのならば、

同じ時代で
同じ空間で

一緒に見て、
一緒に触れて、

言葉を超えた体験をしよう。

僕の中に漂っていた考えが
一つにまとまったような
感動があった。