
もう一つの証拠は許可証で、ダルマチアで準備していた遠征軍のヴェネツィア領内の通行許可を、540年ナルセスがヴェネツィアに求めたものです。ヴェネツィア領内を通過してイタリア本土に入り、すでにアクイレイアからラヴェンナまでの陸路を占領していたゴート族とフランク族の進撃に対抗するためでした。
641年の大移住を受けてラグーナの共同体は更に強化され、既存の制度に変化をもたらしました。 ヘラクレアあるいはチッタノヴァ(Civitas Nova)において697年、裁判官と軍司令官から成る総会が、パオロ・ルチオ・アナフェストという人物を初代ドージェ(統領)に選出したのでした。とはいえそれは伝説で、歴史的により正確だと考えられているのは、その選挙でラヴェンナ総督パオロ(記録ではパトリシウス公)をドージェに選んだ、ということのようです。しかしながらその新設の役職は、大きな意味での自治というものを体現しており、数十年後ーーローマ教皇グレゴリオ2世がビザンチン皇帝レオーネ・イザウリコ(レオーネ3世)の要請を拒絶して、イコノクラズム(聖像破壊)闘争が繰り広げられた頃ーーにはしっかり定着していたのでした。
ヴェネツィアは各ラグーナ独自の制度を一本化してヴェネツィア共同体とでも称すべきものとなり、その海上支配力をアドリア海に及ぼし始めました。同じ頃アマルフィは、ラッタリ山脈(ソレント半島の背骨に当たる山地)とティレニア海の狭間に在って、元はビザンチン人が建設した砦のある小さな漁村だったのが、この頃には既に要塞と化して、ロンバルド族アルボイノ王の侵攻を防いでいました。しかしアマルフィ年代記では、町を建設したのはローマ人の一派とのことで、コンスタンティノープルに向かう途中アプーリア海岸で難破し、メルフィを設立した後、南下してアマルフィ海岸に定住したのがこの村の始まりである、とされています。当時、人口密集地はナポリ公国領内にあり、ナポリ公国はビザンチン帝国の属国でした。アマルフィが最初に史料に登場したのは教皇グレゴリオ一世の書簡集で、590年1月、カンパニアの司祭アンテミオに宛てたものです。この書簡にはアマルフィの初代司祭ピメニオ某が、スポレート公フォロアルドとベネヴェント公ゾットーネの襲撃を受けたのち司祭の地位に返り咲いたことが書かれています。ピメニオ及び彼の後任者たちはナポリ公爵家の支配下にあって、教会問題を担当していただけでなく、政治的な特権も行使していたと推測されています。
ヴェネツィア同様アマルフィも、背後の山地によってサレルノ湾岸の人口密集地帯から隔絶されていたため、海上つまり交易にその活動を展開しなければなりませんでした。交易の発展が沿海地域の農業・牧畜の増産に寄与し、やがて大土地所有者から成る貴族政治が誕生しました。その力は軍部や職業軍人、さらにはビザンチンやナポリの軍司令部をも凌ぐかというほど強大でした。
ジェノヴァとピサもまた、山間部や湿地帯に位置していて、既に生活のために海上に乗り出していました。ヴェネツィア・アマルフィと同様に彼らが直面しなければならなかったのが、どれほど危険なのかが分からない西地中海の航海と、勃興・拡張しつつあったイスラム教徒たちとの粘り強い闘いでした。ジェノヴァは(コンコルディア、トルトーナ、クレモナ、ヴェローナ方面から来る)ポストゥミア街道と(ローマとマルセイユを結ぶ)アウレリア街道が交差する場所です。周囲を山に囲まれているためポー川流域平野、プレモム渓谷、トスカーナ北部の町との往来が容易でないとはいえ、地理的には優れた位置にありました。