月曜日の週末:ダメーバのなうがなぜここまで流行るのか、再確認しながら考えてみた | 道標を探して

道標を探して

 ただ、そこに進んでみたい道がある。
 仰いで見たい空がある。
 踏んでみたい土がある。
 嗅いで見たい風がある。
 会ってみたい、人がいる。

乗り遅れた人たちは~♪


すいません



じゃあ、タイトル通りの話を展開させてみようか。
いや、俺自身も大した根拠がないというか、物的証拠を持っていうわけじゃないから、ひまつぶし程度で読んでくだせえ。

 あのさ、「なう」って基本的におたがいにフォローしてる人以外は話さないでしょ? まあたまに見つけたウマのあいそうな人間と話したり、反論したりするのは別としてさ。

 って考えると、おのずと自分と大体同じ思考の方向性を持った人間が少なくとも「なう」では集まってくるわけじゃない。

 で、この人たち

 まぁ~、普段周囲にはいない人間たちばっかりだよね。そりゃそうだ。そこでフォローしてるのは完全に気の置けている人間であり、実社会ではそんな事出来ないほどに本心をさらけ出しているんだから。

 そして、自分も一人の空間で内心思ってるけど、普段じゃ言えない事をこの「なう」で何気なくつぶやいたりしてるわけだ。

 言ってみれば、この「なう」はほぼ完全な安全地帯。しかも知らず知らずお互いが助け合ってもいる。すんげー理想的な社会図。

 でも、そうすると二人の自分が存在することになるよね。

 社会的な1人称である、現実空間での自分と、電脳空間での自分。
……そうだね、ここでは内面の自分ということで0,5人称の自分とでも呼んでみようか。


 さあ、ここからが本題というか、今日のタイトルになった核の部分だ。

 ところで、実社会では、他人と自分を文章的にはどう区別しているかわかるか?

 そう
 自分:1人称  相手:2人称   その他:3人称だ

でも、「なう」ではちょっと違う。
0,5人称の説明は上でやったね。

 次に、1.5人称が来る。
これはフォローをして、少し話したことのある相手の電脳空間版。こう名付けた理由は2人称より、自分との距離が精神的に近いから。

 自分を思考が同じだったり、あるいは「なう」をやっているあいだの自分をまず不快にすることはありえない人のことと、ここではしておく。
 2人称とは違い、自分との距離は遠く、実際の声すら聞いていない。でも、自分の本心ではなくても嫌われることはない。面倒なのはどれだけ早くしてもキーボードを打たなきゃ会話が続かないという点のみ。
 っていうことで、下手すりゃそこらへんの友達より信用できてるっていう。

 最後、3人称と2,5人称
3人称は別に言うまでもないね。気にかかってないその他もろもろ。

 2,5人称はそれよりもうちょっと自分に近い人。
この人いいなと思ってフォロー、でもあんまり話せない的な状態だったり
タグのコメント見てたらなんかセンスいい人いるなあ、と思ったその対象が2,5人称。

 まあ場合によっては文句言われるかもだけど、ちょっと話してもいいか、みたいな感じの人。

 まあ、だからさ
 結局なうが流行るのって、俺たちが自分たちでオリジナルに温床を作ることができて、しかもその中で付き合ってる人々が、活用方法によっては自分にとってものすごくいい方向に運ばせることが出来るからじゃないかと思うんだよね。

言ってみれば、甘い水が無限に湧いてくる泉みたいな?

そりゃ流行るよね。 俺もなう大好きだもん。避難所になってるから。

……やっぱ現代は人間同士の相互関係が希薄になってきたなんて騒がれてるけど、こういうところで別の関係性を暗に欲してるのかもしれないね。

とかくこの世は生きづらい

誰が言ったんだっけ、この言葉。

あ~、誰か気の合う人が俺の高校の方にもいればいいのにな

まあそううまくもいかないか




一言
こんなのAmazonから届いた

やったね