書いていたな、と思い立った。
真夜中を過ぎ、冷えて朝の水分を含んだ空気が窓の向こうからゆっくりと侵食する5時42分。火曜日。目を閉じても頭の上に重みを与えるだけで夢の世界には手を引いてくれない睡魔にうなだれながら、薄闇の中、夏夜は呟いた。声は出さずに。
就職に躓いて既に3ヶ月が経過していた。貯金を切り崩しながらの生活にも嫌気が差し、実家の母に電話をし疲れたと呟いたら、同居の祖父母のためとバリアフリーに作り替えた田舎の家に、夏夜の部屋なんてない。と冷たく返された。そんなこときいてないし、と言い切る前に、吹きこぼれた鍋によって通話は一方的に断たれた。ひとでなし。零れた呟きは誰にも聞こえない。
来月で32になる。若さと愛嬌で可愛がられた20代のようには、もういかなくなっていた。ぽつりぽつりと増えて行くハタチそこそこの小綺麗な女の子達に可愛いわがままが通じるポジションは奪われて行き、残ったのは金曜になるとビールとツマミで愚痴を零し合う10や20も離れたこ汚い職場のおっさん2、3人と、まだ若かった頃にいきがって反発したせいで肩を持たないどころか何をやっても邪魔しに掛かってくる定年目前の上司のみとなっていた。もう若くない、と年が明けてから何度苦笑いをしただろう。好きでもない企画の仕事に奔走した約7年を、隣の部署のエロジジイのセクハラ発言にキレたくらいでドブ川に投げ捨てたのが8月の終わりだった。もう若くない。のに。仕事も失くし、恋人もいない。
いや、いるには、いるけど。
思い直して、携帯を手に取る。両目がブルーライトのテロに遭った。薄く片目で画面を睨みつけながら連絡先を開いて、夏夜の細い人差し指が、ここ半年口にもしていない名前を探して滑る。
呼び出して、一瞬迷って、発信。
...7...8...9
10コール目を聞いて、発信をキャンセルした。期待し過ぎないように、それでも気付かなかったでは済まないように、10を数えるようになったのは、いつからだったろう。
「............春」
小さく、今度は声に出して呟いた。半年以上ぶりに口にした、愛しい人の名前。夏夜の親友で、恋人で、家族で、魂の双子。だと、思っていた。去年までは。去年の、クリスマスが終わるまでは。
手作りの不細工なケーキに喜びながら、その名の通り春の陽向の甘さで笑う彼女がいれば、それ以上に欲しいものなんて何も存在しないと、用意出来なかったというクリスマスプレゼントのリクエストを聞かれた時、心から思っていたのに。
春がいなくなったのはクリスマスが明けた、12月26日の朝だった。