2次試験が終了してからでは初めての更新ですね。

 

本日(3/1)は早稲田商学部の合格発表日でした。

 

私大合否結果①のブログ(以下参照)で載せた通り、中央大学法学部と同志社大学法学部と早稲田大学法学部が受かっただけで、他の早慶は全滅しているだろうという予測を立てていた僕ですが、まさしくその予想通りとなりました。

 

↓「私大合否結果①【中央大学法学部・同志社大学法学部・早稲田大学法学部】」

http://ameblo.jp/cry-for-kyoto-university/entry-12250250257.html

 

結果は不合格でした。

 

早稲田大学の文系学部の難易ランキングはグループ別にすると以下のようになるのではないかと思います。
 
上位グループ 政治経済学部・法学部
中位グループ 商学部文学部・文化構想学部・社会科学部・教育学部
下位グループ 人間科学部・スポーツ科学部
 
僕が受けた学部を赤くしてみました。
 
合否結果はこれまでにブログを見ていただければわかるのですが、法学部だけ合格で、他の文学部と商学部は不合格でした。
 
受験を経験したことない一般の方であれば、当然偏差値ランキング順に受かっていくのだろうと思われるかもしれません。
 
ですが、実際の受験では必ずしもそうとは限りません。
 
思うに、それは入試形式の違いや科目の違いによります。
 
私大文系はどこも英語を最も重視する傾向にあり、次いで地歴(特に日・世・政経)国語が重視されます。
 
数学を使える大学もありますが、大抵配点が少なかったりして、結果的に英語が合否を決めることになることが大多数を占めます。
 
まぁ私大文系専願の方の大半は数学などが壊滅的で国公立を諦めざるを得なかった方たちではないかと思っていますので(僕の偏見です)、他がダメなんだから英語くらい出来てくれよという大学側のメッセージかもしれません(ものすごい偏見です)。
 
よって、私大文系最高峰の早慶になりますと、初めから私大文系を第一志望として英語を一番の得意としている方たち(俗にいう私文専願者)が現れます。
 
そうなると英語が苦手な人たちは合格が厳しくなります。
 
一部の東大併願者たちであれば、仮に私文専願者が英語だけを極めてきたとしても、その英語力を軽く上回ってくるでしょうが…
 
そして僕は決して英語が得意とは言えません。むしろ関東私大型の英語の形式(精読よりも速読・多読を重視する形式)は苦手です。
 
京大の英語の形式(時間は十分に余裕があり和訳など精読を重視する形式)とは全然違うといってもいいでしょう。
 
ゆえに、今年も早慶の英語はことごとく失敗してきました。
 
さすがに中央大学法学部の英語は簡単でしたが、早稲田法学部の英語は難しかったです。
 
今年は難化したそうなので5割ちょいで合格できましたが、例年であれば7割はほしいところです。
 
一方の早稲田文学部では法学部より英語が簡単ですので7,8割はほしいところなのですが、僕は自己採点の結果5割でした…。なんと法学部と同じ得点率です。
 
法学部の英語のほうが圧倒的に難しいと言われていますが、僕はむしろ短い時間でたくさんの英文を読む文学部のほうが難しいと思いますがね。
 
商学部の英語はさらに簡単といわれていて、今年はさらに易化したといわれましたが、僕は文学部同じく5割程度の出来…
 
そりゃ落ちます。商学部であれば英語8割は取らなければなりませんから。
 
つまり!何が言いたいのかといいますと、僕が法学部だけ受かって、他の商学部・文学部が不合格だったのには、自己分析の結果、ちゃんとした理由があるのです!
 
慶応大学商学部→英語の配点が200点、地歴と数学の配点が100点という英語最重視の学部です。英語の出来が合否を圧倒的に左右します。
 
早稲田文学部→文学部ということだけあり国語の配点と英語の配点が同じではありますが、英語が易しいので英語で失敗すると他の科目で取り返すことは基本できません。
 
早稲田商学部→英語の配点が国語と選択科目より若干高めですが、国語が易しいので差がつかず、英語によって差が付きます。ですので英語が失敗したら終わりです。
 
早稲田法学部→英語の配点が国語と選択科目より若干高めで、ここまでは商学部と同じですが、国語が早稲田の中ではかなり難しい部類に入りますので、英語で失敗しても国語ができれば十分取り返すことができます。
 
このように早稲田法学部だけが英語で失敗しても他の科目で取り返すことができる学部なのです。
 
よって英語弱者の僕は、国語と世界史で何とか英語の失敗を取り返すことができたのだと思います。
 
以上で自己分析は終わりです。
 
本題はここで終わりです。
 
(追記)
暇なのでまたamazarashiの紹介でもさせてください。
 
今回は2011年発売のアルバム「アノミー」から抜粋した曲たちです。
 
アノミー アノミー
1,572円
Amazon

 

①「アノミー」
 
「アノミー(anomie)」とは、フランスの社会学者エミール・デュルケームが提唱した言葉で、「社会規範が崩壊した無規制状態」を指します。
 
まぁ簡単に言えば、「個人の欲望などを制限していた社会のルールが崩壊し、各々が好き勝手にふるまうようになってしまった状態」ということです。
 
では、この歌詞で「アノミー」がどういう意味で用いられているのかといいますと、それはサビの部分に最も強く表れています。
 
愛って単純なものなんです なんて歌ってる馬鹿はどいつだ
アノミー アノミー
そんなら そのあばずれな愛で 68億の罪も抱いてよ
アノミー アノミー (1番サビ部分より引用)
 
愛って特別なものなんです なんて歌ってる馬鹿はどいつだ
アノミー アノミー
そんなら その尻軽な愛で 68億の罪も許してよ
アノミー アノミー (2番サビ部分より引用)
 
注目すべきは、「愛」を形容している「あばずれな」「尻軽な」という言葉です。
 
現代で模範とされている(人々が理想としている)愛は「純粋」で「執心的」な「愛」であるはずですが、その理想とは反対に、現代の「愛」は「あばずれ」で「尻軽」な「愛」になっており、人々の「愛」に対する欲望に際限がなくなっている…ということを言いたいのではないかと思います。
 
そうした「愛」に対する際限の無さが「アノミー」だということではないかと思われます。
 
後に続く「68億」という言葉はおそらく「人類、人間」を指しており、その罪ということは、おそらくキリスト教的な「原罪」を意味していると思われます。
 
ここから導かれる結論は、amazarashiがここで歌っている「愛」は「キリスト教的愛」すなわち「神の愛(アガペー)」であるということです。
 
現代の飽和しきった「愛」と本来あるべき姿のキリスト教的な「愛」を対比している。
 
amazarashiの曲の中でたびたび現れる「警句的」な歌詞ですね。
 
僕が考えられるのはここまでです。あとは社会学を生業としている社会学者たちに任せましょう。
 
うれしいことにYouTubeにも公式MVがあります。
 
このMVで描かれた退廃的な世界もまさしく「アノミー」ですね。
 
 
ボカロ等の歌い手さんで現在は「上北健」としても活躍なさっているKKさんが歌ったものもあります。
 
こちらもこちらでいいです。
 
②「さくら」
 
残念ながらYouTube等にはまともに聴けるものがありませんが、名曲の1つがこちらの「さくら」です。
 
「さくら」が主題の楽曲は古今東西掃いて捨てるほどありますが、この曲に込められた意味は「さくら」→「旅立ち」と解釈した上での意味だと思います。
 
ここは秋田さん本人の言葉を借りましょう。
 
「以前東京に住んでいたのですが、その時のことを思い出して作った歌です。わりと昔からある歌です。終わりと始まり、出会いと別れで人生が進んでいくとするなら、それに付随する悲しみは受け入れなければならない、それなら、泣きじゃくりながらでも前に進めたらそれでいいじゃないかと、という気持ちで作りました。(秋田ひろむメールインタビューから引用)」
 
つまり、「さくら」の咲く時期から連想される「旅立ち」をテーマとして、そこに付随する悲しみも受け入れて、とにかく前にだけ進んでいこうとする意志の表れということが主題だと思います。
 
過ぎ去った人と新しく出会う人 終わりと始まりで物語は進む
だとしたら それに伴った悲しみさえ 生きていく上のルールだから
投げ捨ててきた涙拾い集めて 今年も気づけば春だった
僕は 歌う 歌う 歌う (最終サビより引用)
 
この歌詞なんてそのテーマそのものですね。
 
そういう意味ではこの「さくら」は考察が比較的しやすい曲です。
 
③「この街で生きている」
 
これもテーマは明確です。
 
同じく秋田さん本人の言葉を借りましょう。
 
「東京に住んでいる友達に歌った歌です。応援歌的ですが自分を奮い立たせる歌でもあります。なんか、とても素直に書けた歌だと思います。大事な曲です。この曲で終わることで未来に開けた感じが、余韻として残ればいいなと思いました。(秋田ひろむメールインタビューより引用)」
 
自分を奮い立たせ、未来に開かせる…まさしくその通りだと思います。
 

YouTubeに公式MVがあります。
 
 
以上で今回は終わりです。
 
私大の合否結果も出そろい、いよいよ残すところ京大の合否結果のみになりました…
 
希望は薄いですが、祈っておきます…
 
それでは、また逢う日まで…