連日、連夜、日本列島は暑さで溶けそうです。ショボーン

 

涼みたいニコニコ

 

何をしていても暑い。そんな時は良く昔、聴いた曲「サマータイムブルース」を聴こうニヤリ

 

オリジナルはエディ・コクラン。しかし今、聴きたいのはRC(清志郎)のカバー。

数々のアーティストがカバーしているが清志郎が一番。グラサン

♬~熱い炎が先っちょまで来てる~♬ニヤリ

 

昔は海に良くでかけたが・・・ここからは海へは遠い。

海も昔は何処に行っても綺麗だったのだが・・・・環境破壊が進み、廃棄物や生活排水で汚染され、見る影もない。

海に行ったとしても日本は原発ダラケ(安心して人々が泳ぐ事も、海産物を食すこともままならない。)ムキー

 

清志郎が星になってから、9年。

清志郎は、生前、色々な環境問題や社会問題に曲を通して、世の中の人々にメッセージを伝えてきた。ウインク

 

彼ほど♪HOTな思いをナンバーに乗せて謳い上げた、ロック・アーティスト♪はいない(日本では知らない。)

 

メッセージがダイレクトすぎて放送禁止も数知れず。(脱原発、世界平和、社会問題)爆  笑

彼の死後、3年後に福島原発の事故がカバー曲通りに現実になってしまった。

 

かつて、日本は水と安全は、タダだった(と言われていたが)

 

こう、環境が悪いと・・・・結局は暑さをぶっ飛ばすどころではない。

まぁー、そんな事、言っていたら、安全な避暑地なんて~世界中に何処にもないだろうけど・・・・・

 

暫くは、暑い~夏が続きますが~御身体を御自愛下さい~ウインク

 

♬サマータイム ブルース♬ (原子力はもう~いらねぇ~)

 

日本を代表するバイプレーヤーのパイオニアが逝ってしまった。

俳優、声優、ナレーター、歌手までをこなす、元祖バイプレーヤーの先駆者であった常田富士男氏が逝去されました。

 

「カルキュラマシーン」や「まんが日本昔話」、数々のドラマ、CM、映画に出演、

中でも、映画「天国と地獄」、「赤ひげ」、「うなぎ」などの作品での名演技の巧みさは、

今も脳裏に焼き付いています。

 

ジブリ映画の「天空の城 ラピュタ」で、ポムじい役でも(声優)人気を博した。

 

ポムじい

 

コメディからシリアスな演技まで、ナレーターとしてもあたたかさと優しさ、味わいのある語りが印象的でした。

 

カルキュラマシーンは学校に登校前に観て、いつも遅刻ギリギリでした。

この時代にはかなり珍しい前衛的な教育番組で楽しかった記憶があります。

番組コンセプトはセサミ・ストリートの日本版を目指したものだったらしいが・・・シュールでアバンギャルドでカオスな番組だった。

後の「ウゴウゴルーガ」がこれに近いと思います。

 

♬カリキュラマシーン OP♬

 

 

まんが日本昔ばなしでは家族一家団らんのひと時を過ごしたことを思い出します。

 

 

常田氏は、音楽でも才能を発揮して、アバンギャルドな名曲も歌っていました。

中でも「私のビートルズ」はロック、プレグロ、パンク的な曲も詞も攻めに攻めた名曲です。

60年代~70年代のヒッピーなサウンドとメロディは一度、聴いたら忘れないインパクトが強烈!!

ドラックで飛んでしまったヒッピーをイメージ。

 

実際にビートルズはボブ・ディランから大麻を勧められてから大麻愛好家になったらしいので、強ち、この曲の内容は間違いではない。

 

2001年に大槻ケンヂがアルバム「電車トーマソ」でカバーしています。

 

ジミ・ヘンの代表曲「パープルヘイズ」もドラックソングと言われていますが「私のビートルズ」はこの曲に引けを取らない名曲です。

 

♬私のビートルズ♬

 

また一つ、巨星が消えてしまいました。

常田富士男氏のご冥福をお祈りします。

 

6/29 深夜、「ハンソロ スターウォーズ ストーリー」を鑑賞してきました。

公開初日、深夜としては半分くらいの客席の埋まり具合でした。

 

限定パンフレット表紙

西部劇、アメリカングラフティーの要素あり、ハンソロとチューバッカとの出会い、ハンソロが何故アウトローへの道を歩みはじめたのか?ロン・ハワードは良い作品を作りましたね爆  笑

ファルコン号の伝説のケッセル・ラン、12パーセク飛行説・・・数々のハンソロのバックボーンや数々の謎が判明します!ニヤリ

 

鑑賞前のメディアでの評価は酷評でしたが・・・SWのフリークの私としては全く染色の無い、良い映画で楽しめました。ニコニコ

 

矢沢永吉ではありませんが「やる奴はやる、やらない奴はやらない」

なにが言いたいかというと、「観る人はみるし、観たくない人はみない」

 

どんな評価を下すかは観る人次第です。でも、SWフアンなら観ないわけにはいきませんよね。ニヤリ

 

驚きの展開もありましたし、スピンオフ映画としは裏切らない展開でしたよ(私見)(ネタバレになりますので・・これ以上は控えますが)

ハンソロ ストーリー 2 の展開もあっても良いと感じました。

 

「百聞は一見にしかず」SWファンならご自身でお確かめを・・・ウインク

 

パンフレット 中 見開き

 

パンフレット 中 リーフ

 

ポストカード 劇場公開記念 おまけ

 

♬ハンソロ ストーリー 予告♬

日本代表が、今大会のロシアでWCUPに6大会連続で出場中で、当たり前のように出場することが日本国中にまるで、

お約束のごとく、語り継がれているが・・・・1950年代~1980年代の半ばまでは、夢のまた夢・・・であった。

 

東南アジアの国々や中東の列強国、そして、隣国のライバル、韓国、中国、北朝鮮の高く、固い壁に弾かれ、砕け散る。

散々たる結果、幾つもの敗戦、惨敗を繰り返し、苦杯を喫し、涙を呑んできた。

1986年のメキシコWCUPのアジア最終予選決勝(韓国戦)でメキシコの青い空が千駄ヶ谷の国立競技場に微かに見えかけた。

 

1994年のアメリカWCUPのアジア最終予選、リーグ最終戦(イラク戦)ドーハではアメリカ行きの切符を掴みかけたが、

寸前のところでチケットは零れ落ちてしまった。

 

そう、WCUPは夢物語、日本代表にとっても、サポーターにとっては叶わぬ夢、幻、目には見えるが決してたどり着けない蜃気楼のような世界であった。

かつて、オフトが、カズが、WCUPに出る為に、日本に来たと公言しても、世間やマスコミがこぞって、失笑し、こき下ろし、愚弄した。

 

数々のプレーヤー、指導者の努力、度重なる試練、日本のフットボールを取り巻く環境の変化とサポートを経て、今日に至る歴史を積み重ね、6大会連続(自国開催を含む)出場を掴む事が出来た。これまでの汗と涙と血の結晶が大河の一滴となって成し得た成果である。

 

我々はフランス大会以降、4年に1度は夢の舞台に上がって戦う、日本代表を観て、応援することが出来る。

このこと自体が最高の至福の時間である。自国の代表に思いを馳せて、共に戦い、力一杯、声援できる喜びは

感慨深い。

1978年までは16か国。(1930年・1950年を除き)1982年~1994年までは出場国は24か国。

1998年~現在までは32か国。

32か国にまで出場国枠が増えたが・・・それでも本大会にまでの道程は険しく、狭き門である。

 

世界で最も行われている、スポーツ、フットボール。その頂点がWCUPであり、まさに夢の舞台である。

このスポーツを行っている、このスポーツに携わっている、全ての者の夢の頂。

 

我が日本の6大会の成績は最高でベスト16である。(素晴らしい戦歴であると私は思う。)

今大会、イタリア、オランダという世界でも、名だたる「フットボール大国」が予選で敗退し、涙を呑んだ。

出場したくても・・・出来ない国々は山ほどある。幸いにも、我が代表は予選を自力で突破した。

自国の代表の出ないWCUPは「わさびの無い、すしみたいのもので、味気ない」そして、寂しい。

 

確かに、自国の代表が惨敗し、予選敗退しかねない状況である可能性は非常に高い。

だが、しかし、我らの代表はドイツでもブラジルでもアルゼンチンでも、スペインでもない。

 

日本代表のみが、我々の代表である。監督の好み、選手の好み、戦術の好み・・・・応援するサポーターの数だけ好みはある。

奇蹟は起こらないし、神風も吹かない、勝利の女神も、フットボールの神様も存在しない。

 

今大会はアイスランド(35万人の小国)、メキシコ、スイスの健闘が光っているが、奇跡でもジャイアントキリングでもなく、成るべくして、成った

結果である。彼らの国のサポーターは結果はともあれ、自分の国の代表に誇りを持って、信じて応援していることは間違いない。

 

彼らは自分たちのスタイルに自信を持って戦い、勝利を信じ、90分間、全力を尽くして戦い結果を出した。

 

我が日本代表も自分たちのフットボールスタイルで自信を持って全力で3戦、戦い抜いて欲しいと願う。

どんなに無様でも、惨めでも「自信を持って最後まで諦めずに、スタイルを貫け」ただそれだけ。

 

下馬評を覆し、勝利を掴め、日本。

 

「ボールってのはな、しぶとく、諦めない奴の前に必ず、転がってくるものだ」 by タツミ

 

「強いチームが勝つわけではない、勝ったチームが強いんだ。」 by ベッケン・バウアー

 

私はTVから力一杯、応援し続けます。

サポーターの皆さん、日本代表に元気玉(気)を少しだけ、分けてあげて下さい。ウインク

皆さんの声援という元気玉で代表を応援しましょう。ウインク

応援しただけ元気玉がボールをGOALに蹴りこむ力となりウインク

勝利を手繰り寄せると信じています。ニヤリ

 

♬バブルガムブラザーズ「GET GOOD GET GOD 」♬

先日、スペイン艦隊からイニエスタ号が鳴り物入りで来航しましたが・・

前回はフットボール伝来から指導者編を書かせて頂きました、今回は選手編を書いていきたいと思います。

 

ネルソン吉村(吉村大志郎)

1947~2003(享年56歳)

彼がおそらく、選手としての初めての黒船であろうと言われています。

 

日本リーグ(JSL)初の外国人選手となった吉村大志郎(旧名ネルソン吉村、故人)。

 

日系人2世としてサンパウロ州、アダマンティナに生まれ、16歳でサンパウロの中心街で働きながら、夜間学校に通い、日系人クラブのグレミオ・レクラチーボ・トウキョウでプレー、1966年のAUSP(日系2世連合会)サッカーリーグで優勝、自身も得点王となったことで転機が訪れ、翌年、AUSPの会長の紹介で日本サッカーリーグの初の外国人選手として来日。ヤンマーディーゼル・サッカー部に入団。

 

吉村、ペレ、マリーニョ

ブラジル時代は俊足FWとして得点を重ねていたが、選手の技術水準が低かったというチーム事情から中盤にポジションを移し、釜本邦茂とコンビでヤンマーを常勝クラブへと引き上げていった。柔らかいボールタッチを生かしたボールテクニックは当時の日本では出色であった。愛称はネコ。(そのボールタッチの柔らかさが、ネコがボールとじゃれ合う姿に似ていたことに由来している。)

 

彼のプレーは日本サッカーリーグの呼び物となり、その後の日本フットボールが、ブラジルスタイルの個人技を重視したフットボールに傾倒していく転機となった。

 

パンツの後ろのポケットから二つ折りにしたフットボール・ブーツを取り出して、皆を驚かせた。「ブラジルでは柔らかいクツを履いて、素足のような感覚でボールを扱う」彼があたえた最初のカルチャーショックであった。胸トラップからのシュートが芸術品と称され、釜本にも影響を与え、彼からトラップを学んだ。

 

日本フットボールにブラジルの新風を巻き起こした最高のテクニシャンであった。

 

吉村・釜本 FKを狙う。

ネルソン吉村がいたから(ネルソンのアシストがあったから)釜本の数多くのゴールが生まれたと言われています。

 

197038日、IFKヨーデボリ戦で代表デビュー

当初は「1年間で帰国するつもり」だったが、1970年、12月に日本国籍を取得し、登録名を「吉村大志郎」とした。日本代表では国際Aマッチ通算45試合出場7得点を記録した

その後、怪我の影響とコーチ就任の要請を受けたこともあり32歳で現役を引退した(1980引退)。

日本リーグでの通算成績は189試合出場3054アシスト堂々たる記録を残しての引退であった。

現役を引退後は古巣のヤンマーディーゼルのコーチを10年間務め、1990年に監督に昇格し1993年まで指揮を執った。(森島寛晃を育てた)1993年にJリーグが開幕すると他チームから好条件のオファーを受けたが固辞してヤンマーディーゼルの社員という身分でセレッソ大阪のスクールコーチや総括部スカウト(大久保嘉人をスカウト)として後進の指導に務めた。

 

2003111日、兵庫県尼崎市の病院で脳出血により死去。

2010817日、日本フットボール殿堂入り。

 

日本フットボールに多大な功績を残したパイオニア。彼がサンパウロから日本に新しいフットボールの夜明けをもたらした事に敬意を称したい。

 

 

Festivo(座頭市) × 黒船来航(太鼓の達人)【マッシュアップ(Mashup)】♪

 

黒船来航とは、嘉永6(1853)に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。この事件から明治維新までを幕末という。 

黒船来航以来、結果的には日米和親条約~日米修好通商条約に繋がり、倒幕。

そして、平和的な開国という歴史を経てきた。

 

日本のフットボールの黒船来航はいつなのか?

私なりに調べてみました。

 

A.L.ダグラス少佐

明治政府が開国をみとめた1869から僅か4年後の1873(明治6)年、英国海軍教官団のA.L.ダグラス少佐と海軍兵が来日し、東京・築地の海軍兵学寮で日本人の海軍軍人に訓練の余暇としてフットボールを教えた、というのが定説になっています。(黒船来航後の20年後にフットボール伝来!?) 

その後、東京の高等師範学校に"フートボール部"が、また、神戸尋常中学校(現・神戸高校)や神戸の御影師範学校などにフットボール部(当時は蹴球部)ができ、徐々にフットボールが広まっていきました。

 

ウ・チョウ・ディーン

ビルマ(現・ミャンマー)人留学生チョー・ディンの指導によって、大正末から昭和初期の日本フットボールの技術・戦術が急速に進歩した。

 日本で最初にフットボールの技術を手本に示しつつ教えてくれた外国人コーチ(非公認)。

 基礎技術とともに、チョー・ディンがサイドキックを使って短いパスでつなぎ、スルーパスを相手DFの背後に送り込むショートパス(スコットランド・スタイル)の組織攻撃を説いた。

 

1900年6月、ビルマ生まれ
フットボールの指導と理論の伝授により、大正〜昭和初期に日本フットボール界に画期的
な技術的進歩をもたらしたビルマ(現・ミャンマー)出身の留学生(東京高等工業学校。現在の東京工業大学)

 

1920年頃から東京高等師範学校附属中学校等で指導を始め、鈴木重義氏の要請により指導した早稲田高等学院は、1923年に始まった全国高等学校ア式蹴球大会(旧制インターハイ)で2連覇を成した。

指導力の高さに注目が集まり、全国の学校で巡回指導が始まった。キックやパス等の基礎から、パスをつないで攻めるショートパス戦法(スコットランド人に彼が習ったらしく)まで、実技と理論を教え、その結果、日本フットボール全体の技術力が向上し、国際舞台での活躍の基盤が整った。

指導のテキストとして、『How to Play Association Football』を執筆。1923年8月、教え子らの協力により日本語版が出版される。当時の我が国にはない、写真や図を多用した、技術や戦術に関する具体的かつ理論的なテキストであった。

指導を受けたチームはショートパス戦法(スコットランドスタイル)を軸に躍進し、選手、指導者はその後の日本フットボール界を牽引。

 

初タイトル獲得、1930年の極東選手権大会では初の東アジア制覇。ここに日本フットボールは独自のスタイルを確立し(体格に優れた相手に勝つために、技術を高めよく走って、組織的に守り、短くつないで攻めるという)、戦術的伝統の基盤が作られた。その躍進は6年後のベルリン・オリンピックでの快挙にも及んだ。

1924年に帰国。その後の消息は不明である。2007年 第4回日本フットボール殿堂入り。

 

デットマール・クラマー

192544日生まれ、ドルトムント出身のフットボール選手、フットボール指導者。

日本フットボール界初の外国人コーチ、日本フットボールの基礎を作り、日本フットボールリーグの創設に尽力を尽くしたことから「日本フットボールの父」と呼ばれている。

ドイツでは怪我の為、引退し、指導者として、西ドイツユース代表チームの監督を務めた時にベッケンバウアーを発掘し、ユース代表に抜擢し、公私両面で指導。

 

1960年、4年後の東京オリンピックを控えた日本代表を指導するために監督代行として招聘。来日後、直ぐに、選手と一緒に寝食を共にし、基本的な指導力のなかった日本に世界に通用するコーチ学をもたらした。

 

育成に必要な基礎を教え込み、「一番重要なのは試合。そのために実戦練習が必要であり、それをやるための基本ができていないところがあるので、基本をやろう」と、基本動作、応用動作、実戦を織り交ぜつつ、かつ個人に応じたトレーニングも設定した。

釜本邦茂、杉山隆一、八重樫茂生などの教え子がいた。

練習は厳しかったが選手を大事にしていたことから選手達はクラマーに心酔し、後のメキシコオリンピックのキャプテンであった八重樫に「僕はクラマーの為に戦うんです。」と言わしめた。

 

東京オリンピックではアルゼンチン代表を破り、ベスト8の成績を残した。

任期を終えたクラマーが5つの提言を残して帰国した。

  1. 強豪同士が戦うリーグ戦創設。

  2. コーチ制度の確立。

  3. 芝生のグラウンドを数多く作り、維持すること。

  4. 国際試合の経験を数多く積むこと。代表チームは1年に1回は欧州遠征を行い、強豪と対戦すること。

  5. 高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと

クラマーの提言した5か条は今日ではほぼ実現して現在の日本フットボールの発展に繋がっている。

 

1965年、日本フットボールリーグ発足。

その後も釜本のドイツ留学を実現させるなど日本フットボールに貢献した。

 

クラマーの指導を受けた選手、コーチを中心に構成された日本代表はメキシコオリンピックで見事、銅メダルを獲得し、釜本は大会の得点王に輝いた。

この試合を観戦していたクラマーは日本代表の活躍を喜んだそうです。

 

1967年にクラマーは「FIFA公認トレーナー」となり1969年に日本で開催された

FIFAAFCJFA共催のコーチングスクールで来日し、指導した。

その後、19751976年までクラマーはバイエルンミュンヘンを率いてUEFAチャンピオンカップ優勝に導いた。その際に、人生最高の瞬間ではないかと問われたものの、「最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときです。私は、あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがなかったのです。」と答えた。

 

言葉の魔術師と呼ばれ数々の名言を残している。

 

「フットボールは子供を大人にし、大人を紳士にする。」

 

直言癖が酷く、通訳が苦労が絶えないと言っていたらしい(トルシエ以上の直言癖)

 

2011年のJFAの創立90周年の記念式典が最後の来日になり、2015917日にその生涯を終える。

 

DFB会長ヴォルフガング・ニールスバッハは「世界的に認知されたドイツフットボールの伝道師だった。彼の持っていた才能ゆえ、そして人生を享楽し、愛に満ち溢れた人間性から、どこに行っても評価されていた」とコメントを寄せていた。

 

皇帝ベッケンバウアーが「ドイツフットボール界はデットマール・クラマーという天才を失った」と最大限の敬意を払い、別れを悲しんでいた。

日本にとっても、ドイツにとってもかけがえのない、伝説の指導者だったのはまちがいない。

ポルトガル語のスラング語の意味で「なんてこった~」「おいどうしたんだ~」「やっちまったな~」「やなこった」という意味の言葉「マス・ケ・ナーダ」

正確には、リオ・デ・ジャネイロのなまりでは「マシュ・ケ・ナーダ」と発音されるらしい。

 

私の日常はこのフレーズで溢れかえっています。爆  笑

 

スペイン語の「Más Que Nada」(最高)と言う意味と混同されることもあるらしいのですが、それとは違うそうです。

 

オリジナルはジョルジ・ベンジョール、ブラジル・リオ・デ・ジャネイロ出身のシンガーソングライター((サンバ・ホッキ)⇔(サンバにソウル、ファンク、ロックを取り入れたパイオニア的な存在)の作曲のボサノヴァの名曲 ♬Mas Que Nada」♬

 

1963年、アルバム「Samba Esquema Novo」に収録された曲でブラジル国内で

2か月で10万枚を超えるヒット曲、言わずもがなだが、世界的な大ヒット曲である。

 

彼はMas Que Nada、以外にも数々の名曲を生み出している。(ペレやジーコを讃える曲もある。)ウインク

                                 

                                 ジョルジ・ベンジョール

                                         ↓

 

だが、世界的にはジョルジ・ベンジョールのオリジナルよりも、セルジオ・メンデス&ブラジル66が、カバー・アレンジしたMas Que Nadaの方が有名になってしまいました。笑い泣き

 

最近では、トヨタのシエンタのCMでハメス・ロドリゲスが出演し、(去年の暮れあたりぐらい?)流れていましたが、ブラック・アイド・ピーズ、アル・ジャロウ・・・

 

 日本では、ザ・ピーナッツ、小野リサ、

小泉ニロ(現・NIRO)、由紀さおり&ピンクマティーニ等がカバーしています 

 

原曲が良いので好みはありますが・・他のアーティストがカバー・アレンジした曲は

どれも素晴らしい曲だと思います。ウインク

 

気分の乗らない時には、この曲で自分自身を鼓舞しています。ニコニコ

 

コーヒーのお供に、夏の暑さに、楽しいひと時に、フットボールを感じたい、ひと時に、

ぴったりの名曲です。(昔のコーラのCMのキャッチか?)ニヤリ

 

「やっちまったな~」「なんてこった~」的な演出と映像、曲のハーモニー

 

ナイキのCMです。「FOOTBALL」と「Mas Que Nadaコラボ。

 

ブラジル代表&カンフーキック大将、総出演!

 

ジョルジ・ベンジョール・オリジナルMas Que Nada」)

                ↓

 

躍動感溢れる、ブラジル人のアートで繊細なプレーとリズム感にぴったりのバージョン。

セルジオ・メンデス&ブラック・アイド・ピーズのカバー

              ↓

 

最後はカリオカ(リオ・デ・ジャネイロ出身者)ではないが、ロナウジーニョの全盛期の技とMas Que Nadaの競演。

              ↓

ハリウッド実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』を観てみました

 

ブレード・ランナーへのオマージュを思わせる、

オープニングから物語は始まります。ニコニコ

 

デッカード【ハリソン・フォード】が出てくるかと思いました。爆  笑

あらすじ

近未来の国際的なサイバーテロ(ハイテク犯罪)と戦う公安9課の話。

身体を義体化した(脳と脊髄の一部以外を義体化したサイボーグ)主人公、草薙素子の

自分探しの物語です。(これ以上の内容はネタバレの為、割愛)

 

原作の攻殻機動隊を実写版にした作品です。

 

 草薙素子スカーレット・ヨハンソン

     ↓

設定がアジア人なので・・白人を使うのは違うとの意見があったらしく・・

だったら中谷美紀でも良かったのでは・・(何処となく、スカーレットに似ているし、日本人だし)ウインク

            ↓

 

バトーピルー・アスベック

イアン・マクレガーを23発、殴った感じの3枚目感は否めない。爆  笑

             ↓

    

 

荒巻課長ビート・たけし

    ↓

殿は何をやっても、殿ですね~。もはや高倉健さんと一緒です。ニヤリ

だが、アウトレイジ感は否めない、役どころでした。グラサン

 

芸者ロボット福島リラ

      ↓

ロボットの顔と素顔が殆んど一緒。最高のキャスティングです爆  笑

 

素子の母桃井かおり

     ↓

すっかり、ハリウッド女優が、板につきましたね。かおり姐さんニヤリ

 

実写版では士郎正宗、押井学、リドリー・スコット(映画 ブレード・ランナー)

ウォシャウスキー兄弟(今は二人とも性転換してウォシャウスキー姉妹爆  笑

(映画 マトリックス)の世界観からの影響をインスパイアし、

作品に投影されていると思われる描写が数々と色濃く演出されている。

 

セットや小道具(武器、車、バイク等)もよく造りこまれた、力作だと感心しました。


 

最近、どの小説や漫画も実写を試みては大コケ、バッシングの例外にも漏れませんが・・

「実写は原作を超えられない。」永遠のテーマではありますが・・・。グラサン

 

この映画もその類と思って観ていましたが・・・普通に観れました。(あくまでも私見)ニコニコ

 

実際にアニメ版を観ている方々も初めての方々も娯楽としては「及第点」かな~と思います。

 

お時間のある方は是非レンタルして観ては、どうでしょう!?ウインク

 

「ゴースト・イン・ザ・シェル 予告」

 

猪木ボンバイエ。プロレスファンでなくても、一度は何かしらの形で聴いたことのある曲である。

この曲を聴くと何故かしら、妙な躍動感が漲り、何か戦わなければならない、

何かしなければならない衝動にかられるのは、私だけでしょうか?

 

そう~♪元気があれば~何でもできる♪感覚になってしまう(リズムと勢いで)()

♬ 1~2~3~ダー ♬

 

元ネタはモハメド・アリと異種格闘技・世界一決定戦で対戦することになった、アントニオ猪木にアリが自分の曲「アリ・ボンバイエ」を猪木に敬意を表して送った事に始まる。(対戦結果はドロー)

原曲は、ほぼそのままで、「アリ・ボンバイエ」の部分を「猪木・ボンバイエ」(チャント(掛け声を))

と変えただけであるが・・いつの間にか、本家を超えて、猪木の代名詞になってしまった。

 

♬イノキ・ボンバイエ♬

     ↓ 

 

そもそもの「ボンバイエ」の意味はコンゴ共和国のリンガラ語の「殺してしまえ」「相手を倒せ」「ボコボコにしてしまえ」「やっつけろ」「倒せ」等の言葉らしい。(戦闘モードの言語)

 

 

 

ダウン・タウンの松ちゃんがネタでボンバイエという言葉は挨拶みたいなニュアンスだという事を言っていたが・・・()全然意味が違って、挨拶代わりに使うと意味の分かる当時者の間では戦いが始まります()

 

話は元に戻りますが、アリとジョージ・フオアマンがコンゴのキンシャサで対戦した時の民衆が、声援したチャントが由来。

それを気に入って曲にしたのが「アリ・ボンバイエ」。

 

♬「アリ・ボンバイエ」♬

     ↓

 

猪木ボンバイエの発売当初のレコードのB面には元妻の倍賞美津子の「いつも 一緒に」がカップリングされています。

その曲も「アリ・ボンバイエ」をメロウなバラード調に仕上げた曲調で日本語でしっとり、カバーしています。

歌唱力も抜群です。(流石、元松竹歌劇団)

 

♪いつも~一緒なの~愛があるから~♪でも離婚しましたね。爆  笑

 

♬いつも 一緒に♬
     ↓

 

♬ 春一番「炎のファイター」♬もカバーですが、捨てがたい。

         ↓ 

 

しかし、元々の曲ネタは「アリ・ボンバイエ」ではなく、1954年にアメリカの作曲家、

バード・ハワードによる曲「Fly Me to the Moon」らしいのです。

オリジナルはポップス調だったのをカバーではジャズ調にアレンジしたのが多いらしいがヒットしたのは

1962年のボサノバ調のアレンジでジョー・ハーネルが唄いヒット。

 

その後、ドリス・デイ、フランク・シナトラ、ナット・キング・コール、ダイアナ・パントン等が唄い、これまた、ヒットしています。

 

宇多田ヒカルも「Fly Me to the Moon」をカバーして唄っています。(アニメ・エバンゲリオンで)

こちらも中々の名曲に仕上がっています。ウインク

 

♬「Fly Me to the Moon」♬

          

 

 

♬「Fly Me to the Moon」♬  宇多田ヒカル

           

 

ということは「アリ・ボンバイエ」は「Fly Me to the Moon」をパクっているという

結論に至ります。ニヤリ 元い、凄く、似ていますよねてへぺろ

 

 

そして、猪木ボンバイエは世界中で唄われている曲になるという事です。(ん~なわけないだろう)照れ

信じるか?信じないかは・・あなた次第です。爆  笑

 

3歳の時にアニメ「キャプテン翼」の大空翼に憧れてフットボールを始めた日本代表のキャプテンが窮地に立たされた。

聖人君子、真面目=長谷部に何が起こったのか?

フランクフルトの日本代表MF長谷部誠は現地時間21日のヘルタ・ベルリン戦に先発出場したが、PKを献上の後に肘打ちで一発退場。チームも0-3 で敗れるなど散々な結果に、日本代表キャプテンは今後2試合の出場停止処分が下されるという。

ドイツ紙「Frankfurter Rundschau」が報じている。

 

後半12分にFWデイビィ・ゼルケを倒してPKと判定された。VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)による検証が入ったが判定が覆ることなくそのままヘルタにPKが与えらた。倒されたゼルケがきっちりと成功させて試合の均衡が破れた。

そして、ヘルタが2-0とリードして迎えた後半34分にはゼルケの激しいプレッシャーを受けた長谷部が肘を振り上げてしまい、これが顔面に直撃。長谷部はレッドカードで一発退場となった。
                          

リーグ戦の残りは3試合で、復帰は最終節のシャルケ戦となりそうだ。
 記事では「長谷部は乱暴な行為でレッドカード。(指揮官の)ニコ・コバチは自分たちのファンからブーイングを受けた」と報じられている。長谷部個人としても、フランクフルトとしても受け入れがたい痛恨の敗戦となった。

 

長谷部の“らしくない”プレーに、フランクフルトの地元紙『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』も驚きを隠せず、「長谷部のシーズンは少し早めに終わりを告げるだろう」と残りの試合が出場停止になる可能性があると報じていた。

 

フランクフルトは残り3試合と、519日にバイエルンとのDFBポカール(ドイツ国内杯)決勝を控えているが、出場停止処分がカップ戦にも適用される可能性があり、確かにチームにとっても長谷部にとっても重い処分になりそうだ。

 

確かにファールはアフターにあたるものであるが、それほど悪質ではないと思うが・・・運も悪かった。

 

彼と退場は切っても切れない関係性と運命を感じざるえない。

 

だが長谷部と退場を巡る事件はこれだけではない。

 

20096/6  W杯アジア最終予選 ウズベキスタン0-1日本 タシケント(長谷部が退場)

 

呆然と立ち尽くすしかなかった。最後まで主審のジャッジに悩まされ、試合を通して不可解な判定が目に付いたが、後半44分には、まさかの一発退場。ひじが相手選手の顔に当たったと判断されたが、「当たってたけど、退場になるレベルじゃない」と到底、納得のいく判定ではなかった。


 

 

 2013518日 ブンデスリーガ最終節のフランクフルト戦(2-2)(長谷部が退場) 

 

ブンデスリーガ最終節のフランクフルト戦に右サイドバックとして先発したが、35分に相手MF乾貴士をペナルティーエリア内で倒して一発退場となった。長谷部は悔しさをにじませつつ、乾の“うまさ”をたたえている。

早い時間に退場してしまった長谷部は、「個人的には最後(の試合で)レッドカードをもらってしまって…、良い形で終わりたかったですけど」と悔しがった。
 

乾に対するファウルで退場となったシーンについては、「乾がうまかったと思います」。

「完全に乾はPKをもらいにきていた。あれは本当に乾がうまかったと思います」と振り返る。

さらにいままで所属クラブでの退場は「一発(退場)はないですね」と初めてだったとし、

それでも、「これがサッカーなんで。レフェリーも含めてサッカーなんで」と冷静だ。

 

相手が退場(小野伸二が退場、その後、長谷部も交代)

200910/4 ブンデスリーガ 第8節 ボーフムVs ボルフスブルク

 

「伸二さんとはポジション的にも近くでプレーしていた。伸二さんをフリーにするといいボールを出すんで、そこはしっかりケアしようとしていました。伸二さんにとってあの退場はちょっと不運だった。やっぱり伸二さんの気持ちが入っていたのが見えたし、その中であの2枚目はかわいそう」

 ピッチの上では激しくやり合うシーンがあったものの、試合後の長谷部は小野を思いやっていた。

   

 

 

チームGKが退場(長谷部がGKに)

 

2011年9月11日、第6節ホッフェンハイム戦では右サイドバックとして出場するも、

 

1点ビハインドでの後半35分にGKのマルビイ・ヒッツがレッドカードで退場。

 

チームは既に交代枠を使い切っていたため、長谷部が急遽GKを務めることになった

 

馴れないポジションでありながら、正確なロングフィードを出したり、クロスボールにも飛び出してキャッチするなど奮闘するも、後半40分に失点し、チームは1-3で敗戦した。

 

なお、日本人が欧州5大リーグでGKを務めるのはこれが初めてであった。

 

川島より先にGKデビュー。

 

 

2009512日に行われたブンデスリーガ第32節・ボルフスブルク対ドルトムントボアテング退場)

ドルトムント時代のボアテングとマッチアップ。

65分から出場したボアテングは足を長谷部に振り上げ、負傷退場に追い込んだ。

ボアテング自身も4試合の出場停止となったが、長谷部はその時のことはまったく気にしていないという。

 

現在はチームメイトです。

 

幾度となく、ブンデスリーガーの所属チームと日本代表戦でキャプテンとして、攻守の要として、

チームを支えてきた男だからこそ、廃水の陣でのプレーが多くなり、リスクを背負わなければならない場面で闘ってきた

証が退場に繋がった。

 


決して、悪意のあるプレーでカードを貰ったのではなく、チームの為に勝利の為に最善を尽くした結果が退場を招くことになってしまった。 

 

ラフプレーを肯定するわけではないが、故意に相手に反則を犯しても、主審がホイッスルを吹かなければ、反則にはならない。

 

長谷部にとって今回のロシアWCUPがおそらく、最後の大会になるだろう。

 

南アフリカからロシアまでの間、8年間、彼は日本代表を唯一無二のキャプテンシーと身体を張ったプレーでチーム牽引してきた。

 

1998年フランス大会でベッカムがアルゼンチン戦でシメオネとやり合って、退場になった事を思い出した。

彼は世間に容赦なく叩かれ「10人の勇敢なライオンと1人の愚か者」と揶揄されて猛烈な批判を浴びた。

 

長谷部には今回のプレーを禊だと思って、「心を整えて」、ロシアに向かって欲しい。

WCUPでの退場は無いように願う。

日本代表がどんな困難に立たされようとも、

日本代表という船の舵をしっかり操って貰いたい。

かつて、八咫烏が神武天皇を熊野から大和へ導いたように、長谷部にはチームを勝利に導く、活躍を期待しています。

 

「一羽の八咫烏と10人の勇敢な戦士たち」の快進撃を応援しています。