- 文章読本 (中公文庫)/三島 由紀夫
- ¥580
斬ったな三島。いや、腹じゃなくて文章読本を。
第一章にあるよう、三島は、世に溢れている「“誰にでも書ける文章”のためのもの」ではなく、「“気品、格調のある文章”のための文章読本」を書いた。それが本書である。
思えば僕らは義務教育で文字の読み書きを習い、文を書くことは、できる。できて当たり前なのである。ただ、その文章を、鑑賞に耐え得るレベルにまで引き上げるには、書き手が、なにより読み手が洗練されていなければならない。いい読み手はいい書き手であり、逆もまたしかり。それを三島由紀夫は叫んでいる。なるほど、そのとおりで、本書は初歩的な文章技術の一切を省き、素人が書こうとしない、もしくは書けない文章の極意のようなものを綴っている。
例えば、三島は森鴎外を引き合いに出し、彼が書いた「水が来る」の一文に、文の力があると説く。素人がこれを書けば、娘が水を持ってきてくれた、とか、たぷたぷと揺れる溢れんばかりの水が云々、となるのだが、文章に余計な装飾はいらない。ただ、「水が来る」。そこに読者の想像力を働かせる余地があり、潔くもある。
文章の第一目的とは、人に自分の思想・意志を伝えたるためで、気取った比喩などにより情報をあやふやにしてしまうと逆効果であり、駄文になるのだ。事実、本書に引用されている他の作家の文章もまた、研ぎ澄まされ、美しく潔い。
また、三島は文章を味わえと言う。一般に小説の感想とは、「面白い」がほとんどだが、「文章がいい」というのはあまりない。そこに三島は嘆く。小説を成すものは他ならぬ文章なのだから、時間をかけてでも、文が持つ美しさを味合うべきだ、と。
僕は賛同する。いや、個人的に文章の優劣を決めるのは、「面白いか否か」だとは思っているが、文を味合うことで、小説の旨みが増すことは事実である。ここで言う文には文体も含まれる。どんなに物語が面白くても、それを上手く料理する文体を持っていなくては、物語を物語として「読ませる」ことはできないのではないか。
作家である以上、読者を魅了しなければならない。文章とは、つげ義春の漫画で言うところの、拾ってきた石を売るようなもので、確かな目を持った者によって選びぬかれた石でなければならない。選ばれた文は作家の血であり魂であると僕は思う。そんな言葉によって成される本書の読後。じんと痺れた。
ブログっていうの? なんか、うちのお兄ちゃんが、「俺の変わりに更新してくれ」とかって言うのね? 「お前っぽくデザイン変えておいたから」って。これが私っぽいって、意味わかんなくない? なんか地味なんだけど。これでも私って男子が憧れる私立の有名な女子高に通ってるし、他のコに比べたら垢ぬけてるし、彼氏だっているし、大人っぽい雰囲気もあるから、こんなデザイン、「は?」って感じなのね? ちなみに私の彼氏は超一流大学の医学部に通ってるんだよ?
で、書く事なんて、なんにもないから、とりあえずキョウツウ・テーマってやつに参加することにしたの。『愛ってなんだろう』っていうテーマなんだけど、よりによって愛だなんて、大人の考えることって短絡的。だって、私が口付けた缶ジュースに高いお金払う大人いる時代だからね。そんな大人に愛を題に出されても意味わかんないっていうか。ABCなんてよく言うけど、そんなふうに段階付けて、結局どんなコも、ダメよダメよって言いながら、ちょっとずつ許してくんだよね。高校生らしく節度を持って。段階踏んで。順序よく。で、男子って、やりたくなると絶対「愛」を持ち出してきて。それって都合よくない?
私はやっぱり純な恋愛したいから、公園行って、一緒にお弁当食べて、水族館行って、っていうことしたいんだけど、大抵私の彼氏ってそういうの面倒くさいとかって言うんだよね。ちょっと頭にきたから今日は会わずに帰ってきたんだけどね。土日何しよっかなってカンジ。この間中目黒でオシャレなカフェ見付けたから、うんとオシャレして行こうかな。って、何の話だったっけ? そうそう「愛ってなにか」ってこと。
私は自己愛だと思うんだよね。ほら、愛にカタチなんてないから、愛ってすんごい観念的で、サンタクロースみたいなものなんじゃないかなってこと。サンタクロースがいるかいないか、ってことは信じてるか信じてないかってことに左右されるから、自分の信じてる「愛」っていう観念に心酔することが愛してるってことなんじゃないのかなって思うわけ。どんなに綺麗に愛を語っても、やっぱりオトコとオンナの関係だから、ABCって感じでやっちゃって、そりゃ妊娠したらヤバイけど、オトコが考えてる愛がそれだったらちょっとヤダなって思っちゃうんだよね。
私が思う愛って、すんごいめっちゃくちゃで、カミナリに打たれたみたいなやつなのね? それはキスもセックスも一緒で、手をつないだ時だって、すっごくドキドキすることってない? 傍にいるだけでドキドキすることってない? もうホント、胸はドキドキ、吐息は絶え絶え、ロックンロールのビートはガンガンで、ABCなんて順序はもううんざり! 秩序ある愛なんてもううんざり! え、ていうか、愛って何?
で、書く事なんて、なんにもないから、とりあえずキョウツウ・テーマってやつに参加することにしたの。『愛ってなんだろう』っていうテーマなんだけど、よりによって愛だなんて、大人の考えることって短絡的。だって、私が口付けた缶ジュースに高いお金払う大人いる時代だからね。そんな大人に愛を題に出されても意味わかんないっていうか。ABCなんてよく言うけど、そんなふうに段階付けて、結局どんなコも、ダメよダメよって言いながら、ちょっとずつ許してくんだよね。高校生らしく節度を持って。段階踏んで。順序よく。で、男子って、やりたくなると絶対「愛」を持ち出してきて。それって都合よくない?
私はやっぱり純な恋愛したいから、公園行って、一緒にお弁当食べて、水族館行って、っていうことしたいんだけど、大抵私の彼氏ってそういうの面倒くさいとかって言うんだよね。ちょっと頭にきたから今日は会わずに帰ってきたんだけどね。土日何しよっかなってカンジ。この間中目黒でオシャレなカフェ見付けたから、うんとオシャレして行こうかな。って、何の話だったっけ? そうそう「愛ってなにか」ってこと。
私は自己愛だと思うんだよね。ほら、愛にカタチなんてないから、愛ってすんごい観念的で、サンタクロースみたいなものなんじゃないかなってこと。サンタクロースがいるかいないか、ってことは信じてるか信じてないかってことに左右されるから、自分の信じてる「愛」っていう観念に心酔することが愛してるってことなんじゃないのかなって思うわけ。どんなに綺麗に愛を語っても、やっぱりオトコとオンナの関係だから、ABCって感じでやっちゃって、そりゃ妊娠したらヤバイけど、オトコが考えてる愛がそれだったらちょっとヤダなって思っちゃうんだよね。
私が思う愛って、すんごいめっちゃくちゃで、カミナリに打たれたみたいなやつなのね? それはキスもセックスも一緒で、手をつないだ時だって、すっごくドキドキすることってない? 傍にいるだけでドキドキすることってない? もうホント、胸はドキドキ、吐息は絶え絶え、ロックンロールのビートはガンガンで、ABCなんて順序はもううんざり! 秩序ある愛なんてもううんざり! え、ていうか、愛って何?
やあやあ、などと馴れ馴れしく挨拶するのもなんであるし、堅苦しく書くのもどうかと思うのであって、自己紹介をしろと言われても、ね、僕には自己相対化の目が備わっていないのだから、なんとなしに、音楽と読書が好きな二十代男ですと、記号的自己紹介に終わってしまうのは、それってさ、結局のところ、俺、空っぽな男じゃん、てことになるのも、まんざら否定できないのだけど、事実、空っぽなんだから、しようがないじゃないか。などと、しち面倒くさい、めんどくさい、ということになる。僕はやはり、自己紹介とやらが苦手なのだと再確認。もし、僕を表す言葉があるとすれば、矮小、もしくは堕落者が適当に思えるのだから、始末に困ったものではあるけれど、ただ、ひとつ言いたいのは、朽ち果てるタイプか、燃え尽きるタイプかで言ったら、燃え尽きるタイプでいたい。事実、心のセンターポジションは、燃えている。そして走る。人生とやらを、ひた走る。ゴールなんて、知らねえよ。そんな心意気で、ときに迷い、暴走し、転倒。尻餅。水たまり。濡れた尻を撫でながら、見上げた空には青い鳥の連隊が、「ざ~んねん」と絵文字を描きながら飛んでいくのです。こんな戯言をつらつら書き殴る輩、タカシという男をどうぞよろしく。