戦争中のことであるが、人は食料がなくなると栄養失調状態になり、いかに早く体力が劣化(衰え)て無力化し、死の危険に陥ることになるかを体験した。


昭和20年6月23日、この日、横浜市が600機余りの大空襲を受け、壊滅した。数十万人の市民は、家を焼かれ、食料を焼かれて、ただ呆然自失の状態に陥っていた。私がいた金沢区の追浜は幸い爆撃を免れ、空襲後は直ちに横浜市民の救護が命令され、取り敢えず、食料の補給として市民に「握り飯」を配ることになっり工場の食堂の炊事班は、一切に飯炊きに全力をあげ、我々学生生徒はそれを配色缶に詰めて、トラックに積み込む作業に入った。


昼近くから作業を始めようやく作業が終わったのは夕刻であった。

1万数千人が働く工場の食堂で供給されてきた飯米は、この救援作業で一切無くなってしまった。

これまでは兵食(一般の水平の食事)として十分に白米の飯が腹一杯食べられていたが、この日以来、米の飯を食べることが出来なくなり、代わりに高梁米と芋が混ざった食事でそれも量がこれまでの3分の1程度に減らされた。


然し、作業はこれまで通り過酷な重労働であり、工場内は炉で高温の為、体力の消耗は見る見る内に進んだ。特に、我々の班は、焼鈍炉に使う石炭を4日おきに遠くの石炭貯蔵庫まで行き、4tトラックに満載する超重労働があった。


これまでトラック一杯に石炭を積む(石炭上げと言った)のに4人の生徒が大きなスコップを使って約15分で積み終えていたのだが、次第に長い時間がかかるようになり、6人がかりでも1時間かかってようやく終わるほどに体力は劣化した。食道からは、時折り、ブドウ糖の配給があったが、焼け石に水の状態であった。


そうこうする内に、全員が下痢がひどくなり、一層体力は落ちてしまった。


ある日、かつて住んでいた旧寮まで荷物を取りにゆくことになり、釜利谷の宿舎を朝の8時頃出発したが、足がもつれて先に進めず、200メートルほど歩いては立ち止まり、しゃがみこんで休み、それを繰り返しながら、進んで金沢文庫の旧寮に着いたのは、昼過ぎとなった。寮で自分達の荷物をトラックに積み、上乗りをして釜利谷の宿舎に帰ったのは日暮れ時になっていた。


よく太平洋戦争で南方のガダルカナル島の戦闘で、上陸した日本陸軍の精鋭が相次ぐ、爆撃で、補給を断たれ、爆薬も食料も尽き、全員が栄養失調になり、銃剣を持つ力も無くなり夢遊病者のようになり、ジャングルを逃げ回りながらばたばたと倒れて死んでいった話を聞いたが、私達の6月23日から8月15日の終戦の日までの状態はほぼそれに近い状態であった。座ると、尾てい骨が床に当たり痛くて、まともに座れず、絶えず襲ってくる下痢に悩まされた日々のことを思い出すと、よくも生きてこられたものだと思う。


人はこのようにいったん大きな災害で食料が無くなると、日常の生活をまともに続けることが困難になり、たった2、3週間の内に体力が急速に衰えてしまい、正常な行動が出来なくなってしまう。この事を十分に理解して欲しい。


また、そのような時、急に食料が手に入り、飢えのあまり夢中で腹一杯食べようものなら、一辺に死んでしまう危険があることも知っておくべきである。こうした折には、まず重湯のような流動食を少しずつ摂取して、次第に濃くしながら2, 3週間かけてゆっくりと普通食に戻す事が大切なのである。



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今、タイ国で現政府に反対する派閥が大衆動員をかけて連日バンコック市内の目抜き通りを封鎖して政府軍と対峙し、ついに銃撃戦が起きて、多数の死傷者がでる内乱に近い状態となった。最近ようやく停戦合意がなされ鎮静化に向っているようだが、あの大人しいタイ人でも、時により、このような内乱の状態まで激変し、生活の危機に脅かされることが現実になった。


日本では到底想像もつかぬことだが、我々は海外に旅行し、海外で生活する機会が増えたことから、真剣に海外で滞在中に騒乱に巻き込まれる事態についてここで真剣に考え、どのように対処すべきかを考えてみよう。


一つには日本の外務省がホームページで各国の安全情報(危険地域の指定)や渡航情報、各地の治安状況を調査して警告している。海外に行こうと考えたときは、必ず、一度、外務省の渡航情報を調べて欲しい。やむを得ず、該当する地域に赴く時は、必ず現地の日本大使館、総領事館を訪ね、行動日程を知らせて何か起きた時はどのように連絡するかを取り決めておくことである。


決して自由な行動を取らないようにして欲しい。また、滞在地に向かう時万が一危険な状況になった時、それを回避して別な場所まで避難できるルートを予め調べておくことである。これには、現地の交通情報がどの程度確認できるかどうかで大きく影響されるので、バス、列車、航空機のスケジュールを詳細に調べておく必要がある。


次に、滞在する場所(多くは都市であろう)の詳細な地図を予め入手しておくことが大事である。国によっては地図は、国家機密に属するとして外国人には販売しない国があるので十分に注意することである。


そして、ホテルや住宅が決まった時、その周辺にどんな道があり、どこに通じているかを確かめておくこと、市外の状況でどの場所からホテルに帰るルートがあるか確かめておくことである


言葉の問題もあり、いざ事が起きた時に戸惑うばかりであは騒乱に巻き込まれる危険性が多く、場合によっては、障害を蒙ることが起きるので、こうした予備行動を是非、行って欲しい。

尚、日本大使館や総領事館には必ず、在留届を提出し、事件が発生した時の救援の連絡が取れるようにしておくことである。


その国が不安定な国であるほど、前もって脱出の準備を予め整えておくことが必要である。例えば、予めオープンチケットを購入しておくとか、まさかの時、外出が出来ない時の為に、非常食や飲料を揃えておくなどである。


過去数年での騒乱発生時の状況では、在留邦人の脱出用に日本政府が専用機の配備をした例(インド・パキスタン戦争の時)、インドネシアのスハルト政権崩壊の騒乱時はジャカルタが騒乱状態になり、政府は、自衛隊の輸送機をシンガポールに飛ばして、待機させた例がある。然し、政府の対応はいつも非常に遅い事を念頭に置いて、冷静に行動することである。イエメンの内乱の時は、大使館の書記官の機転によって、英国の商船にうまく便乗して脱出した事例がある。



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今NHKの大河ドラマで坂本龍馬や岩崎弥太郎の明治維新期の日本でどんな戦いをしてきたかのかのドラマが放映されている。然し、私は今冷静に現在日本が直面している国の存亡の危機的状況をどう打開するかについて過去の物語よりも、もっと身近に現実に体験した国難(太平洋戦争)の際に、当時の若者達はそれをどのように受け止め敢然として立ち向かったかについて60数年前の日本の戦いの中に思いを致し、じっくりと考えてみることが重要ではないであろうか?


昭和20年3月、フィリピン海域の米国海軍機動部隊に対し、第一次特別攻撃隊が爆装零戦五機による突撃で大きな戦火をあげるとただちに第二次、第三次攻撃隊が編成され、クラーク基地から飛び立ち攻撃を続行した。然し、これらは兵法の外道であり、異常な感情による暴挙に近いものであり、多くの若者達は悩み、絶望しつつ、死に向かって直進していったのである。ところがこうした流れの中にあってわずかではあるが非道の指令(半強制的命令)の特攻指令に対し敢然と反対し、指揮官先頭に粘り強く戦い部下の無駄な死を避け、常に堂々と攻撃を繰り返し、8月15日の日まで戦い抜いた集団のあったことを改めて指摘したい。


艦上爆撃隊では肥田大尉の率いる飛行隊であり、水上機では美濃部部隊、戦闘機隊では小松大尉の率いる飛行隊である。


これらの戦闘隊は、ほかの隊の何れよりも激しい戦場に赴き、戦火を挙げ続け、遂に最後まで矛を収めなかった。


他方、基地指令や参謀達は割り当てと称し、次々に指名を行い、米軍の前に送り出し、無駄死に追いやり、自らは戦果確認の任務で職場に飛ぶ事もせず、しかも特に許せないのは故障により帰還したペア(乗り組み員チーム)を再び死なせる為に突入させていることである。特に、司令、参謀達は特攻要員となった人々を「消耗品」と呼んで、軽蔑していた事実である。この事実は今日不況の中で各企業が派遣社員を大量に予告無しに解雇し、居住権までも奪って巷に送り出している行動なって今も続いているのである。

明日どうなるかも分からず、不安な勤務の中で正社員に保障している健康保険、失業保険皆無なまま使役し、挙句の果てには生活の基盤である寮まで立ち退きを迫り、路頭に迷わせている。これはかつての日本海軍の幹部が「消耗品」と称して、大量に死地に強制的に駆り出していったことと全く同じ思想行動であり、許しがたい暴挙である。


このように日本の社会も、いまだに特権階級が自由気ままに大衆を翻弄していることをこの際、じっくりと考えてどのように対処するかを考えてみようではないか。



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