MUSER日記
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チンカス

久々にブログでも更新してみよう、と暇すぎて思い立った。この連休、旅行に行くつもりだったのでバイトも6連休取っておいたのですが急にめんどくさくなり断るという相変わらずのゴミ。基本的に楽器弾いてれば時間なんてすぐに経過してしまうのですが流石に6連休ともなると行き詰るな・・・。


それにしても最後の更新が5月だということには驚いた。しっかりと書いてた時期まで遡ればとんでもなく時間が経過していたことにただただ驚くばかり。いや、時間の経過に驚くというよりは、時間の経過に伴う自分の進化の無さに驚いているのかもしれない。

ホントここ数カ月で1番のビッグニュース、パソコン購入だもの笑(ちなみに2位はオーディオインターフェースの購入)


しかし一応頑張ってはみましたがね、人付き合いというものを。やってみた上でやっぱダメだ、という感じでまた戻ってきてしまった感じですね。しなければならない人付き合いなら全く無理なくできるのだがしなくてもいい人付き合いとなるとできない。何が面白いのか全くわからない。すぐ我に返り時間の無駄だと思ってしまう、という昔の自分にまた戻ってしまった。


そんな気持ちの中、そろそろ僕もしっかりと将来を考えなければいけない時期がやってきてしまった。

めんどくさいこと極まりない。いや働くのは全然いいというか働きたいぐらいですが、いわゆる就職活動というものがめんどくさくてしょうがない。この俺様が働いてやると言っているのに就職難とはどういうことやねん笑


つーかなんでこんなクソつまんねーことを急に書こうと思ったんだかね、マジつまんねー文章笑


気が向いたらまた書いてみよう。

えぇぇぇぇ!!!

まっちゃん結婚!?マジで!?

信じられん!あの膣外射精の天才がそんなミスをするなんて!

いやービックリした。つーか浜ちゃんのコメントも「もう五反田行けませんね」って適当すぎだろ笑

あービックリした・・・

読み書き

ここ数ヶ月、何か考えを書き記すという行為をやめてみて思うのは、極端に頭の回転が鈍くなった。脳の退化が著しい。

どうやら自分が思っている以上にこの「書く」という行為は重要なことらしい。

確かに頭の中でどれだけ素晴らしい思案が浮かんだとしても、何らかの形で具現化しなければ意味がない。
脳内でいい曲ができたのに楽器を弾いて形にしないのと同じことだ。

しかしただ書けばいいというわけではないと思う。ただ単に今日あった出来事を日記のように書くだけなら小学生でもできる。

出来事というのはあくまでも題材にすぎない、その題材からどこかに焦点を当て、掘り下げていく。その過程で論理性のある文章展開をさせていくことに意味があると思う。そこに至ってようやく「書く」ことが重要になる。

さらに書くことを通した目的を明確にしておく必要がある。

例えば僕の場合は
「明晰且つ論理的な思考に近づくため」です。

書くという行為に意味を持たせるためにはこのような目的が必要だと思う。

しかしいきなり書けと言われてもなかなか出来ない、その模範となるのが本、つまり読書が重要になる。

良書を読めばどのような展開であれば流れがスムーズなのか、整合性を保てるのか、読者を惹きつけるのか、などが感覚的に身に付いてくると思う。

僕自身こう言いつつもまだまだレベルが低いのでこれからも読書をしていこうと思う。

しかしこれもただ読めばいいというわけではないと思う。

ドイツの思想家・哲学者のショウペンハウエルは「読書論」という著作の中で

「読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。そのため、多読に時間を費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失う。
また、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途中で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。」

と書いているが、これはあくまで著者が思想家という常に知的創造を必要とする人間だったため、
「多読は人から考える力を奪う」という極論になったのであって、僕ら凡人がそのまま共感すべき意見ではないと思う。(ショウペンハウエルは天才主義的な面が強いらしい)

しかし僕ら凡人目線から見ても一理あると思うのは、書くという行為をしない限り、確かに多読は時間の浪費とも言える。

ただ読み、なんとなく頭の中で反芻して終わるだけでは意味がない。
それはなんとなくテレビを見ているのとさして違わないことになる。

あくまで自ら考えるためのきっかけとしての読書でなければならない。

読書のための読書、状態に陥ってしまったらまさにショウペンハウエルが正しいと認めざるを得ない。自らの思考ありきの読書、という形にする必要がある。

こうして考えてみると単なる「読み書き」という行為を、本当の意味でできている人間はそう多くないんじゃないだろうか、という気さえしてくる。

ほとんどの人間が「読み」はあくまでも完全受動のものと認識しているような気がするが、読みにも能動的に働きかける必要がある。

完全受動の読みとはつまり鵜呑みにしているだけのこと指しているが、自らの思考が先行している人間ならば、読みにも能動的に働きかけ、自らの思考のきっかけとなる部分のみを選択し、無駄は切り捨てることができる。

「書き」に関しても目的のはっきりしない「書き」をしている人間がほとんどなのでは、と思う。

これだけ大量の人間がブログを書ているのに興味を持てるブログが極端に少ないのがいい例なのでは。(まぁ人のブログなんか見ないからわからんが笑)

目的が明晰ではない書きなどはそれこそ時間の無駄だと思う。(たまにオナニーに2時間ぐらい費やすとか言うヤツがいるけどそれと変わらん)

と、いうわけで真面目に書いてきたのに最後にふざけてしまった。

つーか照れますね、「だが」とか「なのである」とか使うの笑

始終半笑いで書いてましたし、やっぱまだ慣れないな。ではでは。
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