AZ船長の
「いつも一緒」である必要はない。
それと「大切にしている」ことは別物だ。
という投稿を読んだ、その日の出来事🖋
私にはシンガポールに唯一無二の友達がいる。
元々は高校の部活の先輩だったのに、いつのまにか、同士、魂の片割れという感覚がお互いに出て
度々、目から鱗の気付きを出しあう互いの存在を『権現さん』と呼び合っていた。
そんな彼女から電話で、最近あった[辛かった話]を聞いた。
内容を簡単に書くと、息子を取られたと思い込んでる義母からの人格否定のような発言。
シンガポールと日本で会えないことに対して自分は捨てられた、大切にされてない!という主張を織り交ぜながら、侮辱され続けたと。
さらにそれを彼女の親にまで直接、言ったらしい。
その話を聞いて感情の前に反応していた。
自分が何を感じたか気付く前に、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちてた。
その後、話せなくなるぐらい嗚咽しながら泣いてた。
話した張本人の彼女は電話越しにビックリして、「まさか泣いてる?!」と。
私、「悔しい。なんも知らん急に出てきたに人に、なんでしーちゃんの事そんなふうに言われなあかんねん」
と、言ってたけどあの言葉も『自分の口を通して勝手に出てきた』が、すごく正確な表現な気がするほど感情の半分はまだ追いついていなかった気がする。
彼女の魂が感じた事をあたかも自分が体験したかのように私の涙として反応が出た。
自分に言われるだけならともかく、大事に育ててくれた親にまで自分のことを悪く言うような言葉を聞かせたくなかっただろうなと。
私は、感情よりも先に反応が出るという経験があまりなく、電話を切った後もこの【反応】に対して考えていた。
そしてこれは、
「彼女のことを考えたら可哀想に思えたから。」とかゆう【お友達に対して思いやりがある優しい子】としての反応ではなく、
【彼女の経験が自分の経験になったから】なのかもしれないとゆう仮説が生まれた。
そしてもしそうならと、さらに考え出した。
もしそうなら、
彼女が山に行くなら、私は海に行こう。
彼女が寒さに耐えたら、私は暑さに耐えてみよう。
彼女が満足を感じたなら、私は不満を感じてみよう。
彼女が孤独なら、私は大勢の中にいよう。
その経験を互いにシェアすることで、
一度きりの時間に限りある人生において、倍速で経験値を高めていける気がした。
山はこんなところだったよ!海はどうだった?
ぐらいの感覚で、こっちの「怒り」はこんな気分だったよ、そっちの「喜び」はどうだった?みたいに全てを経験としてシェアできたら、孤独や悲しみ、悩みや苦しみのようなネガティブに捉えがちなものさえも、人生を彩り、経験値マップの幅を広げる素材のような気がしてきた。
それなら、大切な相手ほど一緒に居ることだけを重要視するより、そばにいなくても、相手の幸せや経験値が増えていく事を応援して喜ぶべきなんじゃないかと思った。
どこかのエリアを調査するために、チーム全員が同じ足取りで同じ場所を調査するより、分担して、結果を報告し合う方が効率いいのに似てる。
地球を冒険しにきた私たちにとって、手を繋ぎながら同じ道を歩くのが絶対ではなく、各自の見たい景色を見てきてシェアすることが、
今世@地球
をより深く堪能できるんじゃないかと思った。
彼女の義母のように、大切な人はそばに居て欲しい、会えない=大切にされてない!と言う主張を当たり前のように自分も思っていた時期があったかもしれない。
でも、今回の件で、自分の価値観がよりライトなものに変わってきてる気がした。
AZ船長の、
「いつも一緒」である必要はない。
それと「大切にしている」ことは別物だ。
愛してることといつも一緒にいることはイコールじゃないんだ。
この言葉がとてもしっくりきたという話でした。