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今なら迷わず『花言葉』と答える
Mr.childrenよりミスターちん派です。
中学生になってまだ間もない1996年、春。
中学校に入って知り合ったクラスメートから「ミスチルの曲で何が好き?」と訊かれたので「『シーソーゲーム』」と答えたら、
それを聞いた私は内心「それ、最近出た新しめの曲を並べてるだけやんけ。」と思ったが敢えてツッコまなかった。
敢えてツッコまなかったのは私の持つ優しさか、はたまた気の弱さか。いや、わざわざそんな指摘をするのは無粋だと判断したと振り返るのが妥当だろう。
当時の私の身長は130cm台前半。同級生の中でも著しく小柄で、おまけに童顔で身体能力も年代平均を遥かに下回るとあっては子供扱いされるのは必至。せめて振る舞いだけはと大人の対応を幼い自分なりに考えていた。
因みに『シーソーゲーム』の発売時期は前年夏。中学生になったばかりの子供にとってそれ位の過去は「ここ最近」にあたるのだろうか?
そうは思わないなあ。個人差はあると思うが、少なくとも当時の私にとってそんな感覚は無かった。それ位の時期の曲は既にレンタル落ち90円で手に入ってたし。
今となっては少なくともここ10年位は最近の感覚と感じる様になってしまったが…。
さて、話は本題に戻る。
この時と前後する位の時期、同じ団地に住む旧知の仲の別のクラスメートが私の家を訪ね、私が隣のリビングでゲームをしている傍ら、私の部屋にある『シーソーゲーム』のシングルCDを再生していた。
勝手に使うのは別に良い。むしろ役に立ててくれてるのなら嬉しい。
しかし彼は一曲目の『シーソーゲーム』が終わると、カップリングの『フラジャイル』を聴かずに再生を止めていた。
今だったら「勿体無いなあ。損してるなあ。」と思う位で特に目くじらを立てる程の事では無いのだが、
やっぱりこのCDは二曲目の『フラジャイル』まで聴いてこそだと思うので、まあ本人が幸せならこれ以上何も言う必要無いんだけど、やっぱり勿体無いなあ、アホやなあと思うんだよ。
☆本日の一曲☆
涙がキラリー☆
2002年発売のサッカーゲーム『ウイニングイレブン6』のハンガリー代表チームに「キラリー」という名のGKが在籍していた。
かつて「マジックマジャール」と称されサッカー界で隆盛を誇っていたのは遥か昔。今や見る影も無いと言われて久しかったハンガリーにおいて、唯一の意地とも言える能力値を誇り、ハンガリー国籍選手内きっての実力派として、マスターリーグでもGK補強を考える際にはよく候補に挙がっていたし、そのネーミングも相まって印象に残っていた。
4年後の『ウイニングイレブン10』に登場した際は、名前の表記がWikipedia等と同様「キラーイ」に変わっていた。
能力値は4年前と比べて衰えが見られるものの、選手検索をしてもGKの項目によく名前が挙がり、依然としてハンガリーの守護神として存在感は醸していたと思う。
しかし私はこの「キラーイ」という表記を見る度に心が痛んだ。
何故なら私は女性陣からよく「キラーイ」と言われているからだ。
男性の美容師さんからは「和製ベッカム」とも言われた事があるのに女性陣からは「キラーイ」。
やってらんねえよなあ。
☆本日の一曲☆
生きている楽曲
私が邦楽オタクの道に傾倒し始めたのは1991年の下半期辺りからだが、姉やその他年長者の影響でその目覚める時期が早まった部分は果たしてあったのだろうか?
確かにそういった人達から教わった楽曲も幾らかあった。
しかし当時の小学校低学年の教室でも『愛は勝つ』『どんなときも。』『SAY YES』『それが大事』『鼻から牛乳』等と言った所謂超が付く程の有名所は話題に挙がっていたし、あながちそこまでその人達の存在が無ければ…と言える程の強い影響があった訳では無さそうだ。
元来、関心を持った事柄への入れ込み具合は定型発達者(恐らく)の姉より段違いに強い。
なのですぐに姉達の知らない様な曲をもどんどん発掘する様になったし、中古等でCDを集める様になってからは決してマニアとは言えない姉からするともう手に負えないと言う風に見られる様になっていた。
但しJUDY AND MARYに関しては別だ。
このアーティストのCDは発売と同時に姉が購入する為、私が触れる機会は無かった。
当時の私は姉弟という近しい間柄である筈の存在にも気軽にCDを貸してくれと言えなかった。内気な子供だったのだろう。
JUDY AND MARYと言えば90年代中期以降、時代をリードする一角と言っても過言ではない程の存在感を放っていたアーティスト。
シングル曲はCDを持っていなくてもメロディーをフルコーラス把握出来る様になれる程巷で耳にする事が出来た。
でもアルバム曲までは聴く事が出来ない。
姉がリビングで流している時に耳にした位だった。
その時私も良いな好きだなと思ってはいたけれど、前述した通り貸してくれとかダビングしてくれとかは言えなかったから…
ここ最近ですね、姉の遺品のJUDY AND MARYのCDに手を付けたのは。
流石は一時代を築いたアーティスト。否応無しに非凡さを感じました。
もっと早く聴いとけば良かったなと思う位。
今は訳あって聴いたり唄ったりしていないが、私が中高生時代に屈指に好きだったのがRAZZ MA TAZZ。
1996年4月、私は店頭に並ぶタイミングである発売日2日前にショップに駆け込み、RAZZ MA TAZZのシングルを購入した。
その翌月、今度は姉がアルバムチャート1位を獲得する事になるRAZZ MA TAZZのアルバムを購入した。
この時ばかりはダビングさせてくれと言いましたね。
しかしそれに対し「RAZZ MA TAZZ好きなの?」と聞き返されるだけで何やかんやダビングはして貰えませんでした。
いや、好きに決まってるやろ!先月シングルを新品で買ったばっかやで…
本当、姉とはそんな感じの関係性だったんで、死別した事を変に同情的に見られても困るんです。どう反応して良いのか分からなくなるというか…
結局、そのアルバムに収録されていた楽曲に触れる事になるのには約3年の月日を要しました。
今は思う所あって避けていると言えども、当時の私にとってRAZZ MA TAZZの恨みはデカいのです。
でも今思うとJUDY AND MARYだったら私が興味を持った事を喜んでダビングもしてくれたとも思うなあ。
それだけジュディマリ愛に溢れた人で、布教させたい思いも持っていた感じだったから。
私は姉からCDを借りる事は出来なかったが、姉は普通に私からCDを借りて行っていた。
当時はまだCDの山(コチラの記事の画像参照)と言う程でも無く、塵が積もり始めた位の段階だったが、そこから何枚か抜き取られている形跡がある事が幾度かあった。
前述の新品で買ったRAZZ MA TAZZのシングルの時は、私もまだ買ったばかりだった事もあって中々返って来ない事に不満を露わにした。
それを受けて姉は「RAZZ MA TAZZのCD返さない事で弟に怒られている。」と友人に電話してました。不登校児の癖に、だ。
(姉の不登校は認められていたのに私は認めて貰えず学校に行かされた事を恨んでいる。勿論、姉じゃなくて親を。)
流石に業を煮やし、この時ばかりは俺も何か持ってくぞとばかりに姉の部屋にあったカセットテープをランダムに掴んだ。
私の方が姉からCDやらカセットを借りたのはこの時が唯一だったであろう。
藤重政孝さんの2ndアルバム『forever』がダビングされたカセットだった。
藤重政孝さんと言えば、姉から「この人かっこいいよ。」と教わった存在。
そんな姉のお陰もあって私も今や自称文京区の藤重政孝との異名をとる。
Let it goというアーティストの『大好きだよ』というシングル曲があり、私はCMで耳にしたこの曲が気になって、中古で売り出されたら例え300円でも買おう!と思っていた。
90円で手に入れ帰って来た時、姉はこの曲を知らなかったが、取り敢えず借りて行き、その後、私の部屋からCDが抜き取られている形跡があった際、毎回この曲も抜き取られていた。
「気に入ってくれたんだな」と思うと嬉しくなりましたね。
相手が誰であれ、自分のセンスで選んだ物を気に入って貰えるのは嬉しいものですよ。
ジュディマリファンにとって刺さる要素があったのか?上記のタイトルをクリックするとYouTubeで聴けるので確かめてみて欲しい。
尤も、このシングルはカップリングの『風に吹かれて』の方が良いと私は思っている。
姉ももしかしたら『風に吹かれて』の方に惹かれていたのかも知れません。
☆本日の一曲☆
This is プロ野球
ふと思い出したので1997年の野球観戦の思い出を。
当時、学校で課される作文とかでこういう事書けば良かったのにとか思わなくもないですが、以前の記事でも書いた様にあの頃の環境下では自分の趣味・嗜好などを表に出さず、内に秘めるのが正解だと思ってましたので…。
尤も、スクールカースト上位層のガキ大将とかだったら好き勝手に自己主張出来たのでしょうが、私はそんなんじゃ無かったのでね。
特にあの頃の居住地は横浜ベイスターズの認知度や人気も低く、精々巨人しか知らない様な田舎者から常々中傷されていました。
なので私の様なカースト下位層が公の場でこんな事書いたらバッシングは不可避。またも要らぬストレスに苛まれる要素があると思うと賢明な判断だと見る向きもあながち間違いではありません。
(政治・宗教・野球の話題は三大タブーと言うのもよくぞ言ってくれたもんだと思えます。)
しかし東京圏に帰って来て横浜入りしてしまえばこっちのもんだ。
確か8月14日、いやこの日だ!8月12日!
横浜対中日!17回戦!
当時地方在住だった事もあり、この年唯一の公式戦観戦。(どういう事かこの年は春休み恒例のオープン戦観戦の記憶が無い。)
試合展開等、記憶がうろ覚えになっている面もありますがそこはご容赦頂きたい。
この日、相手の先発が左投手と言う事で、横浜の6番ライトは右打者の川端一彰選手だった。
この時期の横浜は、相手が右投手の場合は左打者の佐伯選手が、左投手の場合は川端選手が起用される傾向にあった。
佐伯選手と言えば当時の推しも推されぬ人気選手である。
この日のライトスタンドでも、
「川端なんてやだよー佐伯が見たいよー。」とぼやいている人や、目の前のライトを守り打球処理を誤った川端選手に対して「佐伯と代われ!」と言う趣の乱暴なヤジを飛ばす人も居た。
それらを耳にしながら、「人気選手とのポジション争いは大変なんだな…」と改めて思ったものだった。
私にとっても佐伯選手は横浜ベイスターズの生観戦において目の前で最も多くのアーチを架けてくれた選手である。
その勝負強いバッティングに関西系で陽気なキャラも立っていてオフのバラエティー番組でも活躍するチームを代表する選手の一人だった。
しかし川端選手だって派手さは無いが、確実性の高いバッティング(実際この年は規定打席未満ながら3割を記録)に内外野守れるユーティリティーさを兼ね備えたいぶし銀の魅力を持った選手だ。
「川端!見返してやれ!」
私はそう強く願いながらこぶしを握り締め、メガホンを叩き続けた。
そして私の願いは届いた。
川端選手が相手の左腕・前田投手から起用の期待に応える勝ち越しの三塁打!!
私は熱狂の渦に沸く中、「佐伯を出せとか言ってた人達、今どんな気持ち?」とも思った。
自分の持ち味を出し結果で示した川端選手。
最高だ!
これまでの記憶ではこの川端選手のタイムリーから追いつかれる事無く、これが勝利打点だと思っていたが、どうやら違うらしい。
確かにヒーローインタビューも別の選手だった。
しかし私にとってのこの日のヒーローは推しも推されぬ川端選手。
人気選手との比較と言う悲哀を味わいつつも結果で自らの存在価値を示したその姿には野球の妙と言う物を見せられたし、当時まだまだ幼かった私にとって、また一つ人間が大きくなれる様な心揺さぶる経験をもたらしてくれたと思っている。
この日は進藤選手の本塁打も飛び出した。
横浜ファンになってからというもの、進藤選手が放つレフト方向への放物線が大好きだったので、それを生で観れて非常に満悦だ。
相手方のパウエル選手に喫した場外ホームランも鮮烈な当たりで印象に残っている。
衰えが目立ちこの年限りで中日を後にするパウエル選手。
この年から使われたこの新応援歌で盛り上がる相手方スタンドのボルテージは自軍のピンチにも関わらず思わずノってしまう位だった。
そこで飛び出したスコアボード横をすり抜けて行く場外弾。
最終的に自軍が勝利したからこそ言える事かも知れないが、正に敵ながらアッパレで、調べたら中日での最後のホームランとの事。
翌年阪神へ移籍するも再生は叶わなかったパウエル選手ですが、三年連続首位打者を獲得した程のレジェンドの中日時代最後の輝きを目に焼き付ける事が出来たのも得難い経験だ。
上記でもリンクしたスコアを見る限り、川端選手のタイムリーの直後に進藤選手のツーランが飛び出したものと思われる。
そして翌イニングにパウエル選手のスリーランで追いつかれ、すぐにローズ選手か駒田選手の決勝点で突き放したってとこだろう。
28年前の事とは言え、記憶というものは曖昧である。
無事5対4で勝利を収め(もっと差を付けていたものだったと記憶していたが…)、
球場外での二次会で「優勝するぞベイスターズ!」のコール等をひとしきり叫んだ後帰路に発つ。
喉が渇いて乗り換えの横浜駅のホームの自販機でファイブミニを買う。
旨い。格別の味わいだ。
そんな思い出もあった為、翌年の夏も野球を観てないのにも関わらず同じ場所でファイブミニを買った。
そんな事を思い出すと、四半世紀以上経った今でも横浜駅のあのホームのあの場所にはまだ自販機があるのか?まだファイブミニはあるのか?とか考えてしまいますね。
帰路に就く中、私はこの年から新調された川端選手の応援歌を脳内でずっと口ずさむ。
君が描く夢を! 僕らも追いかける!
勝利という瞬間を信じて 駆け抜けて行こう!
この歌詞は正に一ファンとしての当時の心境に合致するものだった。
惜しむらくは翌年以降は内野の控えの立場は万永選手に押され、右の外野手として佐伯選手とツープラトン起用のポジションも新加入の中根選手に奪われる形となり、川端選手が輝きを放つ機会が無くなってしまった事。
万永・中根両選手とも横浜ファンとしての活動の中で特に好きな部類の選手ではあったが、川端選手の活躍の場が減ってしまった事は痛痒い。
よってこの年が全盛期だったと言えるだろう。
その活躍の場に立ち会う事が出来て心底嬉しく思う。
私の中で永遠に記憶に残り続ける野球人・川端一彰!
本当にありがとう!
☆本日の一曲☆
黒夢の楽曲にまつわる苦い思い出
ある冬の日。
当時通っていた専門学校のスタッフ系学科のPA・照明のテストプレイ要因としてステージに立つ事になった。
そこで私は当初、BOØWYの曲を唄う予定だったが、どういう訳か黒夢の『Like@Angel』という曲を唄う事にした。
どんな心境の変化だったかは記憶に無い。何故か黒夢になった。
ともあれ実際私は黒夢の曲を唄った。
当時控えていた進級公演の際の衣装で。
スーツの上に白衣。
事情を知らず観ていた者としては何のこっちゃと思った事だろう。
実際に演じた私自身も今となってはアレは何だったんだ?と思ってる位だ。
しかもその時私は風邪をひいていた。
声が誤魔化しの効かない位ガラガラだった。
黒夢と言えば巻き舌を駆使したヴォーカルが有名だが、当時の私も巻き舌を交えていたかは記憶に無い。
たた当時の私なんて見よう見真似位しか出来なかったので少なからずは踏襲していただろう。
スーツの上に白衣を羽織った姿でガラガラ声のまま黒夢を唄う…
とっても辛い思い出だ。
黒い夢と言うよりシンプルに悪夢だ。
実験台とは言えステージに立って人前で唄う晴れの機会。
万全の状態で演れなかった事は屈辱である。
後にボイトレの授業で唄った時、この場に居た生徒から、「あの時より良くなってる。」と言われたが当たり前だ!
比べるんじゃねえよ、、、
さて誰の目に見ても喉がぶっ壊れている事は明白だったが、あと1曲メインディッシュが残されていた。
2曲目はヴォーカル科の友人と東京プリン『携帯哀歌』を唄うというもの。
始まって横を見てみると相方は突っ立ってるだけで唄っていない。
単純にアガっているのもあっただろうが、歌詞も覚えていなかったのだろう。
結局私がガラガラ声のまま殆ど一人で唄う格好だった。
唄い終えた後のMC(これが好評だった)は尺の都合で最後はブツ切りで終わった。
なので私が力説していた内容のオチをここで説明したい。
この時期は地獄の進級公演の稽古の真っ只中だった。(芝居の出来不出来とかじゃなくてイジメがきつかったです。)
そんな中でも拾う神ありで、社会人野球繋がりのNTTの人から電話で「観に行くから頑張って」としきりに励まして貰っていた。
泣かせるじゃないですか。
そんなNTTの人達に恩義がある中で、『携帯哀歌』という電話に対して否定的な歌を唄うなんて私は何て不届き者なんだ!
そんなオチです。
尺の都合でフォークボールが落ちる前に痛打されてしまう格好になってしまいましたが。
さて20年の時を経た本日はgakk倶楽部ライブパーティに出演します!




