国語科「三年とうげ」について | CREO SQUARE クレオスクエア

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光村図書の小学校国語教科書下P.4856に「三年とうげ」というお話が載っています。

クレオスクエアは地域教科書準拠のカリキュラムなので、授業でも、この教材を取り上げました。

ざっとあらすじを書いてみますね。

あるところに三年峠と呼ばれる峠があり、そこには「三年峠で転んだら三年しか生きられなくなる」という言い伝えがありました。そこで、ここを通る人たちは、転ばないように注意して歩いていました。

あるとき、一人のおじいさんが隣村へ反物を売りに行った帰りにここを通り、注意していたにも関わらず転んでしまいます。言い伝えを信じていたおじいさんは、「あと三年しか生きられない」と思い込んで家に帰り、本当に具合が悪くなって寝ついてしまいます。

そこへ、水車屋のトルトリという人物が登場し、「おいらの言うとおりにすれば、おじいさんの病気はきっとなおるよ」と言い、「三年峠でもう一度転べばあと三年、二度転べば六年、三度転べば九年、四度転べば十二年生きられる」とアドバイスします。

しばらく考えていたおじいさんは納得し、三年峠へ行ってわざと転びます。

そのとき、木の陰から誰かが歌う「いっぺん転べば三年で、十ぺん転べば三十年、百ぺん転べば三百年…」という歌が聞こえてきて、おじいさんはすっかりうれしくなりました。

教科書は、なぜかここで終わっていますが、原作ではこの歌を歌っていたのはトルトリだったという説明がついています。

「三年とうげ」は、韓国の李綿玉(リクムオギ)という作家の作品です。

文科省の学習指導要領や解説では、小学校三年生の文学的文章の読解では、「物語の場面や人物の気持ちを読み取る」ということが指導目標になっています。この教材も、その目標を達成するために選ばれ、教科書に掲載されているものです。

そのため、ネット上に上がっている多くの指導案が、「子どもたちに情景を想像させ、各場面での人物の心情を読み取らせる」ことに主眼を置いたものになっています。

確かに、この作品には、例えば、「春には、すみれ、たんぽぽ、ふでりんどう。とうげからふもとまでさきみだれました。れんげつつじのさくころは、だれだってため息の出るほど、よいながめでした」「秋には、かえで、がまずみ、ぬるでの葉。とうげからふもとまで美しく色づきました。白いすすきの光るころは、だれだってため息の出るほど、よいながめでした」という描写があり、情景を読み取らせる格好の素材になっています。文章から情景を想像することは、文学的文章読解の第一歩です。

また、おじいさんが隣村からの帰りに、腰を下ろして美しい眺めに見入るところ、日が暮れてきてあわてて立ち上がるところ、うっかり転んでしまって青くなるところ、家に帰っておばあさんに泣きつき、寝込んでしまうところ、トルトリのアイデアを聞き入れて起き上がるところ、最後にうれしくなってしまうところなど、感情の移り変わりがはっきりしていて、小学校三年生にもわかりやすいものになっています。登場人物の心情に寄り添って物語を追っていくことも、読書の醍醐味です。なので、クレオスクエアの授業でも、場面の読み取りや、人物の心情の移り変わりを読み取らせる設問を解いていく練習をします。

しかし、この作品は情景と心情の読み取りを教えるためだけの「テキスト」ではありません。それだけでは、この作品を読んだことにならないのではないかと思うのです。

言い伝えどおり、「転ぶと三年しか生きられない」と思い込み、寝込んでしまうおじいさんに対して、トルトリという人物がそれを逆手にとって「一度転ぶと三年生きられる」と価値観を180度転換する機知が、この話の面白さの中心にあります。けれど、それを、小学校三年生が面白い、と思えるかどうかがポイントです。

よく考えてみると、このお話は、「一休さん」のようなとんち話であるとは言い切れません。「転ぶと三年で死ぬ」という言い伝えは、常識では起こりえないこと、悪く言えば不気味な「呪い」のようではありませんか。

ここに謎があるのです。

それをあっさりと転換してみせたトルトリという人物は、一体何者なのでしょうか。この問いから、授業の推進力となる、子どもたちとの推理合戦が始まります。

文中から読み取れる人物像を整理してみましょう。

まず、トルトリは、自分を「おいら」と言っているので、男性、しかも比較的若く、身分の低い若者だと思われます。

水車屋、とあるので、村の一員ではあるようです。しかし、おじいさんの病気がどんどん重くなって、村の人たちがみんな心配する頃になってからお見舞いに来たので、おじいさんと普段から親しくつき合っていた人でもなさそうです。

そして、トルトリは「三年で死ぬ」という言い伝えを「三年生きられる」と転換してみせ、これによっておじいさんが助かったのですから、知恵のある若者だったことがわかります。

さて、ここで問題です。

トルトリは、なぜ、昔からの恐ろしい言い伝えを逆転させることができたのでしょうか。

トルトリは、おじいさんが寝込むほどの言い伝えを、信じていなかったのでしょうか。

さらに問えば、この昔からの言い伝え「転ぶと三年きりしか生きられない」というのは本当なのでしょうか?

こう発問すれば、小学校三年生でもわかります。

この作品は、不思議な呪いの話、あるいはとんち話のような体裁をとりながら、「昔からの言い伝え」が事実ではないことを見抜いたトルトリが、信じ込んで寝込んでしまった哀れなおじいさんを呪縛から解放する、いわば知的ヒーローのお話です。

村はずれの水車小屋に住む身分の低い若者トルトリは、「昔からの言い伝え」など信じていません。しかしそのせいで、おじいさんが寝込んでしまったという村人の話を聞いたトルトリは、おじいさんを救おうと考えて、お見舞いに来ます。迷信によって実害を受けていることに対する義憤に駆られたのかもしれません。

いきなり「あんな言い伝えは嘘だ」と言っても納得しないので、おじいさんには、「一度転べば三年、二度転べば六年…」とわかりやすく説明します。そこがトルトリの頭のいいところです。

しかし、最後に本音が出ます。「百ぺん転べば三百年…」と人間にはあり得ないことを歌ってしまうのです。これが種明かしです。あの言い伝えはただの迷信に過ぎないのです。

歌っていたのはトルトリでした、という原作の結末がなければ、本来の知的ヒーロー譚としてのこの話は完結しません。光村図書が、それを断ち切ってしまい、「さてこの歌を歌ったのは誰でしょう」というクイズのような発問をする材料にしているのは、どう考えても無意味だと思いますね。

むしろ発展的に子どもたちを考えさせるなら、なぜ村人たちは「三年とうげで転んではならない。転ぶと三年で死ぬ」と言い伝えてきたのかということではないでしょうか。昔も今も、そんな不思議なことは起こるはずがないのです。

作品の冒頭、「あるところに三年とうげと呼ばれるとうげがありました。あまり高くない、なだらかなとうげでした。」とあります。

してみると、ここは転んだら崖から落ちて死んでしまうというほどの険しい峠ではなかったわけです。

にもかかわらず、「転ぶと三年で死ぬ」という言い伝え。村人たちは、なぜそんなことを信じ、語り伝えねばならなかったのでしょう。

ここからは想像でしかありませんが、いくつかの可能性があります。

たとえば、かつてこの峠が禁足地だったからかもしれません。おじいさんは隣村へ反物を売りに行くときに、この峠を通ります。しかし、昔は権力者によって、隣村との交易が禁じられていたのかもしれません。村人たちの中に、禁を犯して交易するなら、「転ばないように」回りに気を配って通らないといけないという意味で、この言い伝えを広めた知恵者がいたのかもしれません。

あるいは、クマやオオカミなどの猛獣や、山賊が出る危険なところだったのかもしれません。「転ばないように」という言い伝えは、「用心して通行しないと危険である」という意味だったのかもしれません。

いずれにしても、この言い伝えの本質は「注意深く通りなさい」という警告なのであって、呪いのような「転んだら三年で死ぬ」というところにはないのです。

そうした一見不思議な言葉の中に息づいている先人たちの思いに気づくことが、本当の意味で子どもたちに身に着けさせるべき読解力ではないでしょうか。

小学校三年生にとって、世界は不思議に満ちています。家庭の中だけで完結していた世界が、学校や、友達との交流や、テレビやネットや、さまざまな「外部」と接触することによって、どんどん広がっていきます。わからないことだらけですが、知りたい!という気持ちも強くなってきます。

しかし、今、マスコミやインターネットには、嘘か真かわからない、信じるか信じないかはあなた次第、という情報があふれかえっています。

嘘だとわかっていて「都市伝説」「ロマン」として楽しめる大人ならいいのですが、まだ軸となるものの見方を身に着けていない子どもが、そうした情報を頭から信じ込んでしまうのはとても危険です。

現代社会を生きるうえで、正しいことと、そうでないこと、現実と非現実を見分ける方法を学ぶのは、最も大切なことになっています。それは学校だけでなく、家庭教育、社会教育の課題でもあります。子どもに関わる大人は、あらゆる機会をとらえて、伝えていかねばなりません。

「転ぶと三年しか生きられない」という呪いのような「昔からの言い伝え」を信じて寝込んでしまう善良で愚かなおじいさんというのは、実は、自分の頭で、科学的にものごとを考えられず、「昔からの」価値観を信じ込んでしまう私たち自身のことです。

ネット上には、「日本の教科書に韓国の作家を載せるのはいかがなものか」という意見があるようですが、まったく本質を外しています。

どこの国の作家だろうが、この作品には、迷信にとらわれずに、自分の頭で考えようという明快なメッセージがあります。トルトリの側に立つことで、初めてこの作品の面白さがわかってきます。「情景と心情の読み取り」だけに矮小化してしまうのはもったいない!と思います。