ご存知の方も多いと思いますが、イエス・キリストの言葉です。
恥ずかしながら私は最近まで誤解しておりました。
先ず与えなさい、そうすれば後に返ってくるという見返りを求めての”与え”だと・・・
繁栄の法則を考えれば、あながち間違いではないのですがここでは心構えのことを言っているのだと感じてください。
”与えよ”は仏教で 布施(ふせ) と言います
よく法事などで”お布施”と言いますが、それは一般的に”僧に財物を施すこと”という意味です。
そして仏教的には次の3種類があります。(引用)
財施・・・財の布施。他人にお金や物を施すこと。募金活動など。
身施・・・身の布施。他人に身体を使った労力を施すこと。清掃奉仕など。
法施・・・教えの布施。他人に仏の教えを施すこと。説法すること。
なお、これらの施しを行なうときにはある動機が必要不可欠であり、それは、
一切の見返りを求めず(そういう心を持たず)、他人の幸せを心から祈るという
ことである。つまり、ギブアンドテイクでは決してないということである。
見返りを求めないということは、「自分はこれだけの布施をしたのだ」と偉ぶる
こともなく、逆に 「自分はこれだけしかできなかった」と卑下することもないという
ことである。
自分でできるだけの布施を行ない、布施ができること自体が「有り難い」と思える
ことによって、自分自身の仏性が磨かれるのだと説かれる。
そして、この3つの布施の中で最も尊いとされるのが法施である。もちろん、
財施も身施もいわゆる人助けとしては尊い行ないであるし、奨励されるべきこと
には違いないのだが、ややもすると、募金も奉仕も、それを受ける人にとっては、
一時しのぎに終わってしまう可能性もありうる。
そこで法施が重要になるのである。
開発途上国などに対し、医療費や食料を援助するのは、人間として大事な
行ないであるが、それに加えて、田畑の開墾の仕方や農作物の育て方などを
伝授することができれば、当地の人びともいつか自立できる日がくるというもの
である。
すなわち、人の幸せを祈願して行なうということが成り立って初めて布施といえる
のである。
仏ですね~。
私はまだ財施、身施しかできていないので早く、人々が感じている ”苦しみ”
それは自分が生み出している幻想だということに気づかせてあげたいです。