しばらくぶりに写経をしている。
用紙も筆も墨も、かつてダイソーで買ったもの。お経は般若心経。ダイソーにあったのがそれだけだから。短い経文だからでしょうかね。印字されたお手本のうえに薄紙をおいて、書き写すタイプです。

画数の多い文字を、慣れない筆で書くのは一文字一文字それは気を遣う。時間がかかる。それがいいのだ。筆ペンだとささっと書けてしまい、「写経をしてるんだぞ」という特別な気分にならなかった。

高尚な目的はなく、筆を運ぶ感覚が心地よいのだと思う。
マインドフルネスの効果もありそうだが、結構ごちゃごちゃ考えてますね。言葉の意味は、かなり若い頃に熱心に調べた。当時は精神的ななにかを追い求めていたのだと思うが、今となっては人生の答え合わせのような感覚も少々覚えた。



それより今回書きながら思っていたのは、「観自在菩薩」なんて誰が考え付いたんだろうなあということだ。(般若心経は「観自在菩薩は~」と始まります)
観自在菩薩に限らず、たくさんの仏や菩薩の名前があるが、どの時点で誰がどうして生み出したんだろう。お釈迦様が本当に、「観自在菩薩がね」と語ったのだろうか。
観自在菩薩という名称自体は、サンスクリット語の意味を玄奘三蔵が漢訳してできた。お釈迦様が語ったときとは、ずいぶん印象が変わってるだろう。そもそもお経自体、お釈迦様が亡くなって300~400年後にやっと文字になったものなので、その間に人から人へ口伝で受け継がれる間に、どこまで変わっていったものか。
入滅から300年あたりに師匠が弟子に口伝してる様子を想像してしまう。玄奘三蔵たちの、サンスクリット語から漢語に翻訳する大プロジェクトの日々とか。大変だっただろうな。

ありがたいお経の意味より、それが伝わっていく過程の人間の状態の方に興味関心がいってしまう。
それでもまあ、写経の意味はあるだろう。