先週、滋賀・京都の小旅行に向かうときにふと、このお楽しみは「がんばったご褒美」とかじゃない、生きる喜びとして行くんだな、という思いが浮かんできました。
2月に仕事をやめて、しばらく自由に過ごすことにしています。
すると、「仕事もせずに遊んでいていいのか」という声が頭の中に響いてくる。「いいのだ、そのために自由にしてるのだ」と理性に返事させ、声を振り払って行く。
これまでがんばって働いたから、だからいいのか? 今もがんばってるから、いいのか?
いや~、そんなの関係ないな。心が望むことをするのは、条件付きで許してもらうようなことじゃない。
「今日も仕事がんばったから、おいしいもの食べたっていいよね」「お母さんは大変なんだから、たまに旅行したってバチはあたらないよ」
よく聞くし、自分でも言いがちなセリフですが、ずっと違和感ありました。
自分はそもそもがんばってないし。母でもない、介護もしてないし。大変な思いをしてない自分が楽しむのは、バチあたりなのか。
誰にもなにも言われてないけど、そんないじけた気持ちになってしまう。
近江八幡の八幡堀。船も通ってた
でも、そうかなあ。食べたいものを食べる、旅をする、収入につながるかどうかに関係なく学びたいことを学ぶ、も含めて、心から望むことをするのは、なにかの代償として得ることなのかなあ。
生まれたからには、無条件にやっていいんじゃないか。いや、そのために生きてるんじゃないか。
ご褒美というと、スイーツとかブランド品とか豪華旅行とかが浮かびますが、本当に望む生き方をして満たされているときに、毎日毎食体に悪い食べ物を摂りまくりたいとか、見栄のためだけの買い物とか、求めない気がする。脳がすでにバグってたらわからないけど。
単に喜びのために行動してみると、
これができるお金は、過去の自分が働いてくれたおかげだなあとか、
それを支えてくれた人たちがいたなあとか、
資産の殖やし方を教えてくれた人たちもいたなあとか、
心を開放するのを助けてくれた人もいたなあとか、
いろいろと感謝が浮かんできました。
ちょっと前まで、まだ人からどう見られるかを気にしていたのでしょうね。さらに自由になれてるようです。