アカリ・リッピーさんのアーユルヴェーダ講座の日でした。
1月から始まって、早3ヵ月。毎回話が深すぎて、知る喜びは大きいですが、真理が遠くからチラっと見えたけど少しも自分のものにできないもどかしさがある、とでも言いましょうか。
今日教わったことのなかに、「考えるほど、見失う」という言葉がありました。
アーユルヴェーダ用語で、プラーギャパラーダ、知性の乱れという意味だそうです。
わたしは常に考えてばかりなので、その言葉にドキッ、チクッ。
その一方で、真理を追究すること、自分を探究することを、ずっと続けていくことが大事だとも言います。
わたしにはその区別が難しい。自分の頭を常にぐるぐるしているコレは、知性の乱れなのだろうか、それとも絶え間ない真理の追究なのだろうか。
知性の乱れであれば、どうしたら真理の探究になるのだろうか。
と、また思考の渦に巻き込まれていったのですが、そこでハタと思いました。
どんなに考えても、考えるだけじゃわからないのではないだろうか。
アーユルヴェーダを実践することでしか、見えてこないんじゃないだろうか。
知ることが喜び、ではある。それは良いことでも悪いことでもありません。
ただ、アーユルヴェーダを学んでいるのは、知る喜びのためではなく、よりよい人生をおくるためです。
(講座会場からの眺め。開放的でリラックスして学べるのがいいです)
そのためになにを実践するかは、これまでもいくつも教わってきました。ヨガや瞑想、オイルマッサージもそのひとつ。
基礎の基礎しかまだ教わってないと思いますが、それさえも、瞑想の時間が取れなくて~とか、食事の調整ができなくて~とか言ってます。考える方はぐるぐる考え続けてるのですが。なんだかおかしい。
そんなにすぐに、できるようにならないですよね。学びというのはゆっくりなものなんですかね。学ぶこともその結果も焦らず。
今日のところはここまで。
ともかく考える以上に実践する、実践を通じて学ぶ、が今日の結論。