仕事に打ち込んでいたころ、趣味は楽しい時間でした。
フルタイムの仕事で残業も多かったのに、休日や仕事帰りに映画館や美術館や演奏会に行って、友だちと語り合って、街歩きして、海外旅行して。ブログも書いていた。フィギュアスケート鑑賞にもはまっていたなあ。
40代半ばくらいから、演奏会では音楽に集中できず、2時間映画を観続けるのも、小説を1冊読み通すのも難しくなった。家にいても旅に出ても、いたたまれない。
仕事は苦痛になっていた。
(ベルギー旅行の写真だったと思う)
そういう数年間を経て、文学作品をまた1冊読み通せたときはうれしかった。
いまでは読書も映画も音楽も、また楽しんでいる。
20数年ぶりに声楽も再開して、いろんな勉強もしている。
ただ、あれから仕事に情熱はもてていない。それが大きな欠落感になっている。
真剣に取り組んではいるけれど、気持ちが入っていかない。
生活の糧を得るためと割り切ればいいじゃないかと思う。そういう話はよく聞く。
けれども割り切れないようだ。
趣味に興じているときも、大事なことが抜け落ちている感覚がぬぐえない。どこかで、仕事の方がおもしろかったと思っている。
仕事がアイデンティティの大きな部分を占めていたのだと、なくして初めて気づきました。
その軸があったから、それ以外のことも心おきなく楽しめたのだ。
仕事があるだけいいじゃない、趣味を楽しめるだけで幸せだ。やりたいことをやれたのだから充分だ。
と簡単に済まされるだろうと思うから、人には言わない。
言わない、が……、
実のところ、本当に、仕事があるだけで、いいのだ。
趣味がある、楽しめる、ことがとても幸せなのだ。
心のすきまというやつをわかってもらえない、と拗ねるのは、図星をさされた気まずさから目をそらそうとしているだけと分かっている。
欠落感に苛まれながら歌を歌う。いいではないか。それが味だ。
ふらふらと世界をさまよって美しいものに出会う。それで良き。
だいたい、かつて仕事にそこまで本気出せてなかった。美化しすぎだ。そのやり残し感があとを引いているのかもしれない。
1時間前にこの文章を書き始めたとき、頭にあったのは「ない」ことだけだった。
書いているうちに、「ある」ことに気づかざるを得なかった。
成長したものだ。