皆も覚えているのであろうか? | ちょいワル親父の荒くれブログ

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ペタしてね

やっちまった叫び


携帯を忘れてしまった叫び


取りあえず

このことを

サワ坊隊に知らせなければ

どうすれば良いのだろう

俺は考えた

伝書鳩?

狼煙?

念力?

どれも今一だ

・・・・・

・・・・・・

俺は閃いた

之しかない

皆も覚えているのだろうか?

年配の人なら知っているかも?

若い子はその存在すらしらないのかも?


不特定多数の人々が利用することを目的とし、

利用しやすい場所に設置される

それは



そう

公衆電話だ!!

携帯無い時には

これはかなり有効だ!!

速攻パーキングにはいり

ぎり覚えている家の番号に掛ける事にした。

こんなことも有ろうかとテレカを持っていたので

使ってみた

・・・・・・・

ボロボロになりすぎて使えなくなっていたしょぼん


ありったけの10円を公衆電話に使ってしまった

取りあえずサワ坊から電話あったら

豊橋稲荷で合流しようっと伝えといてくれ

っとピチMに頼んだ

よっし

これでOK完璧だ!!

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予定より

ちょっと時間をオバーしたが

無事浜松城に到着


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浜松城

信玄の侵攻に備え

家康が遠州一帯を見渡す三方原台地に築いた城。

三方ヶ原の戦いで信玄に大敗した家康は

命からがら浜松城に逃げ帰ったといわれる。

その後の長篠の戦いも家康は浜松城より出陣した。

その後、浜松城の城主の多くが幕府の要職に登用されたことから

「出世城」とも呼ばれる。


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城の中には色々展示してあった


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展示物の中に

ガラスのケースに入って居ない

日本刀を見つけた

その日本刀からは

ただならぬ妖気が

こっこれは叫び

妖刀なのかっ?


欲しい得意げ


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泣きっ面に蜂

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天守閣

なかなか良い眺めだ


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でもこの金網だけは

やめて欲しい

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一か所で時間をかけれないから

すぐに次の目的地

田原城に出発だ

海岸沿いの道は最高!!


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田原城

戸田宗光が築城。

今川方だった戸田氏は今川家の人質となった竹千代(家康)を

護送する道中、寝返って竹千代を織田信秀の元に送った。

桶狭間の戦い後に家康が田原城を攻略。

慶長6年(1601)に戸田尊次が入城。この時期

家康も田原を訪れたといわれる


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御堀もなかなかだ


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桜門


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二ノ丸櫓


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田原市博物館


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二ノ丸櫓の中の展示物

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ジオラマはなかなか良かった

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桜門裏


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次は吉田城だ

豊橋の町

路面電車が良い雰囲気だ

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吉田城址
桶狭間の戦い後、

信長と同盟を結んだ家康は

今川氏の拠点だった吉田城を攻略。

東三河の押さえとして重臣・酒井忠次を城主にした。

忠次は城の防備を固め

後に武田信玄・勝頼の攻撃をも退けている。

現在の城の景観は忠次時代のものではないが

豊橋公園内の豊橋市美術博物館では

吉田城関係の資料を収蔵する


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こんな感じだ


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修復中だ


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入口

しまってた得意げ

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次の場所は豊川稲荷だ

サワ坊隊と合流場所だ




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無事に会えるのだろうかっ


つづく


プログがだいぶ手抜きになってきたかも叫び