貧しき画家のもとには

 

想い出のほかには何も残らなかったのだろう

 

加藤登紀子の歌う詩がひたすらに沁みる

 

 

 

思い返してみれば

私の人生観にこの曲も大きな影響を与えている。

 

自らの手元に何も残らなくとも

ただ、ただ。

 

そういった意味では

武満徹の「死んだ男の残したものは」もまた。

 

 

 

私は何も残すことができない。

 

 

かの有名な「ピアノの詩人」、フレデリック・ショパンは

叶わなかった恋の相手と交わした手紙を

「我が悲しみ」

と記した封筒にまとめたそうだ。

 

私にとって、全ては

カタチとして残すことのできないものであり

叶えることのできない悲しみであり

そして

ゆえにどうすることもできないもの。

 

 

このような人生観は

私自身幸せになれず

周りの人々を幸せにはしないはず。

理性では分かっている。はずなのだ。

 

かつては

遥かなる高みを目指したのだが

どこまで行っても辿りつけず

何も叶えることができなかった

 

いつしかこのように生きるようになってしまったのだな。

不倫の男女が心の中に常に抱えている―――

 

これは山下達郎氏のベストアルバム「OPUS」(2012)のブックレット、

 

「FOREVER MINE」の頁に書かれた解説である。

 

 

私は、この言葉を最初に読んだとき、およそその意味を量りかねていた。

 

しかし、今ではその意味を感じつつある。

 

 

私の感じる「死」のメタファーというものは、それはつまり「終わり」の存在である。

 

前提としての、永劫に続くことのない、という共通認識。

 

その関係性に、必ず「終焉」が存在するがゆえの、ある種の無常観。

 

避けることのできない「終焉」、その最たるものが「死」なのだろう。

 

だからこそ、一瞬一瞬に全力で向き合う。

 

結果として何も積み上がるものがなくとも。

 

 

さて、問いかけたい。

 

このメタファーは、果たして不倫の男女だけが抱えるものだろうか。

 

 

心のどこかで常に感じている「終焉」。

 

それは常に「死」を意識して生きているということである。

 

その時相対しているものは、眼前の者ではなく、「死」なのかもしれない。

 

眼前の者と向き合っているようでいて、真には彼を通して「死」と向き合っているのかもしれない。

 

 

だからこそ、甘美であり、また、痛いのかもしれない。

執着すること

 

頼ること

 

依存すること

 

 

何が違うというんだろう

おはようございます&こんにちは&こんばんは

久々のブログです。

書き出しも自分なりに定型を作っていたのですが、すっかり忘れてしまっています。
じんわりと思い出しながら。マツモトと申します。

今日は日本で初めてカトリックの教会に足を運んでみました。
(海外旅行の際には立ち寄ったことがあるのですが)


結論から言うと、生まれて初めての体験でした。

一人で教会に足を踏み入れたのは生まれて初めてだったので、正直とてつもなく緊張していました。
信徒でもない、全く関係のない一人間が、そこを神聖視している人が少なからずいる場所に足を踏み入れるというのは恐ろしく大変なことです。
ただただ「教会は皆に開かれている」というような言葉のみを信じて。

中の聖堂も、明かりは点いておらず静まりかえっていました。
聖堂への入り方も分からない私にとっては「自由に入ってお祈りください」と書いてあったとしても聖堂に入ることができませんでした。

色々な方が祈りを捧げる「その場」であるという、異様な雰囲気を感じたのです。
おいそれと近づいてはいけないような、軽々しく入ってはいけないような。

丁度よく信者の方が来られて聖堂に入って行かれたので、見様見真似で入って後ろの方に座ってみました。
お祈りの仕方も何も分からず座っていました。


初めて、神の前で自分は裸である、と感じました。

生まれて初めてです。

自分は何者でもなく、無力であり、どうしようもないのだと。

クリスチャンの方から聞くお話で聞いたことはあっても、実際に感じたのは生まれて初めてでした。

こんなにも自分はちっぽけなのだと。


そう言えばひとつ前の記事では「信仰は様式だ」とか何とか理屈をこねていますが、実際にその場に行ってみると全く関係ありませんでした。
「その場」だからこその感覚、、、

初めはお祈りの仕方も分かりませんでしたが、だんだんと自分の中から色々なものがこみ上げてきました。
このコロナ禍であることを含めた、自分の境遇、家族の境遇、知人・友人の境遇、、、

「もし神がいるとすれば、何故なのだ?」と。
「私はどうすればいいのだ?」と。
「私にはこの先何ができるのだ?」と。

「もし神がおられるのなら、私の業をお示しください」と。

気付いたら涙や嗚咽がこみ上げて来ました。
途中マスクの中で鼻水が凄くなったので一度聖堂から出て鼻を噛ませていただきましたが(笑)


神を信じているか?と訊かれたら今のところ私には答える術がありません。
訊いてきた人がどのような方であろうと、その方の望む答えを返すことはできないでしょう。

しかし、今日あの教会で過ごした時間は、間違いなく良い時間でした。
ある意味では、自分に向き合う時間と言えるかもしれません。

私が「良い時間を過ごせた」と感じている理由は明らかには分かりませんが、しかし。
「その場」であったからこその体験をすることができたのは、もしくは少なくともその体験は。
「よかった」と言えるのではないでしょうか。


それでは。
また機会がありましたらお目にかかりましょう。

おはようございます&こんにちは&こんばんは

 

初見さまは初めまして。

 

以前よりブログを読んでくださっている方はお久しぶりです。

 

このブログは「徒然なるままに。」という題名のもと、気の向いた時に気の向いた内容を書くブログなのですが、気づいたところ半年間アップデートを行っておりませんでした。

まさに「気の向いた」時にしか書いてないからこその更新頻度だとは思いますが、その間にも色々考えることはありますので、備忘録がてらいくつか記事を書こうかなぁとパソコンに向かっております。

 

さて、私がブログを更新していなかったこの半年間、世間は新型コロナウイルス(COVID-19)感染症騒動ですったもんだしていました。

勿論、2020年9月が終わろうとしている現在でさえも世界的には収束していませんし、この先インフルエンザも流行することでしょう。

取り敢えずは、今の所当ブログの管理人は無事生きております。

 

あ、申し遅れました。

マツモトと申します。

 

直近の記事いくつかは大学生・若者らしい「自分探し」的な内容であるのですが(今後も似た内容の記事を書くかもしれません)、元々はJW(エホバの証人)関連の記事をメインに、宗教について考えるブログを書いていました。

 

今回は久しぶりに宗教信仰についての最近の私の考えを記しておこうと思います。

当然ながら記事を書いている時点での考えであり、いずれは変わるかもしれません。

その際には、機会があればまたブログ記事にでもしようかと思います。

 

それではさっそく。

 

 

ずばり「信仰」とは、私の考えでは所謂「様式」です。

 

エホバの証人の方々の「聖書研究」又は「聖書レッスン」というものに参加していると基本的に「ものみの塔聖書冊子協会」の出版物(定期的に発行される機関誌であったり教義体系を解説する冊子であったり)に基づいて話を進めていくのですが、読んだり説明を受けたりする度に得体のしれない違和感を覚えるのです。

それはエホバの証人が“キリスト教三大異端”の一つに数えられていることや、彼らの普段使用する聖書が「ものみの塔聖書冊子協会」の発行する「新世界訳」という、誤訳やキリスト教主流派の解釈とは異なる解釈のオンパレードであることに起因するものではありません。

 

ただただ、妙に理屈っぽいのです。

 

一つの事柄を説明するのに、例(それも出版元の本国がアメリカであるが故に日本の一般実情とはかけ離れた例が殆ど)をいくつもいくつも挙げたりだとか、聖書の記述(彼らも、恐らくキリスト教主流派諸派もそれを「聖句」と呼ぶ)を異なる箇所から複数引用してきて無理矢理繋げてその事柄に帰着させたりだとか、兎にも角にもストレートではないのです。

 

「ものみの塔聖書冊子協会」の示すエホバの証人の信じる教義は、教義ありきで書かれる出版物のためにそれらしい根拠となる聖句を探してきて構築されるものであって、聖句の吟味と深い洞察によって組み立てられたものではないとはよく言われることだと思いますが、もしかしたらこれも妙な理屈っぽさの一因となっているのかもしれません。

 

しかし私は、宗教とは「絶対的に何が何でも」というある種の強さが必要だと思うのです。

 

言い換えるならば理屈を抜いた領域とでも言うもの。

 

聖書を信じる方々にとって「聖書に書いてある神を知らない、又は信じない者」は不幸な人であると思うのですが、端的に言うなればそういった考え方です。

不幸であるとまで言わなくとも、恐らく「それは本当の幸せじゃないよ」というのではないでしょうか?

聖書とそこに書いてある神を信じる方々にとっては、神に赦され、来たるべき世界において神と共に永遠に生きることが無上の幸せであるのだと思うのです。

 

正直、およそ理解し難い価値観です。

現在の私は聖書とそこに記されている神に信仰を持っている訳ではありませんので、上の書き方にも誤りや偏見、語弊があるかもしれません。

しかし理解も納得もし難い。

 

だから、宗教とは理屈ではないのです。恐らく。

理屈では理解も納得もできないのだと思います。

 

しかし、こんな私が上の様な価値観を受け入れるために手っ取り早い言葉があることも知っています。

 

「それは、そういうものなのだ」という言葉です。

 

理屈を抜いた領域であり、理解できる範疇を超えたもの、価値観。

「それはそういうものなんだ」と思うこと。

そう思うならば、私も受け入れられると思います。

 

だからこそ、宗教信仰とは「様式」なのです。

 

「これが正しい」という様式。

「これが善」という様式。

「これが神にとって良い」という様式。

 

全て理屈を抜いて「そういうものなのだ」と受け入れる。

それが「信仰」であると思います。

 

だからこそ、異なる宗教信仰を持った人とは価値観が相容れないということが起こります。

早い話が「生まれた星が違うのだ」ということです。

 

仕方ないことです。

 

そして、私にとって宗教とはそういった「様式」の集合体でしかないために、理屈で説明しようとしてくる教義には違和感を覚えるのです。

単純に「そういうものなのだ」とだけ告げてくれるのならば素直に受け入れられるのに、散々に理屈をこねくり回して説明してこようとします。

そして現代日本の実情にそぐわない説明が書かれていたり、又はその理屈が中途半端に矛盾や破綻を抱えているものであったりすることが更なる違和感へと繋がります。

 

要するに、例示や説明などは最小限あれば事足りる、場合によっては必要ない、ということです。

 

しかし、このように書くと「教義を無条件に受け入れる、そのような姿勢は思考停止状態だ」と言う方もおられることでしょう。

 

ならば敢て私は言いましょう。

「思考停止で何が悪い」と。

 

本来、宗教信者の多くを占めていた一般庶民は恐らく教義を深く理解していなかったことだろうと思います。

 

想像してみてください。

中世ヨーロッパ世界において、農民の方々は聖書の内容を真に理解していたのでしょうか。

聖書のどこに何が書かれていて、その故にこの教義が存在する、と理解していたのでしょうか。

 

恐らくそこまで理解しておられる方は多くなかったのではないか、と私は思います。

識字率や聖書普及率の問題ではありません。

単純に、農民の方々はその生活で手一杯だったと思うからです。

逆に時間を持て余す身分の方々でないと、自ら聖書を理解しようとはしなかったでしょう。

 

ただ難しい理屈などなく、お祈りしなさい、と教わった方が多かったのではないかと私は思います。

本来、一般庶民にとっての宗教信仰とはそれでよいのだと思います。

 

ところが「みなが聖書を自ら読み理解するべきだ」という世界になってしまいました。

詳しいところは間違っているかもしれませんが、私はルネサンス以後の啓蒙主義によってこの変化が起こったような気がします。

「知ることが幸福に繋がる」という価値観が、エホバの証人の信ずる教義を始め、キリスト教の多くの思想の根底にあるように思います。

 

忘れてはなりません。

 

エホバの証人も、その前身となり現在では別の団体となっている「国際聖書研究者協会」も、立場やその組織がよく似ている「末日聖徒イエス・キリスト教会」(設立年代はこちらが先)も、すべてキリスト教プロテスタントの思想から分派しているもののはずです。

「新世界訳聖書」などはその最たるものです。

そしてそのプロテスタントもまたキリスト教カトリックから分派したものでもあり…

 

恐らく「知ることが幸福に繋がる」価値観は、イエス・キリストが復活の後に弟子たちに告げたという言葉にまでその根源を遡ることができるのでしょう。

未だ神を知らない者にその存在を知らしめよ、そして弟子とせよ、と。

 

ここで「知らぬが仏」という諺をわざわざ引っ張り出す必要はないとは思いますが、私は「知ることが幸福に繋がる」と本当に言えるのか?と問いたくなります。

これもまた一つの価値観であり「様式」である、と言ってしまえばそこまでですが、ならば逆にそこまでにしておいてはいかがでしょうか。

異なる価値観を持ってる人に対して、その価値観を押し付けるのはどうなのか。

または単純に価値観と「様式」として提示し、相手を理屈でねじ伏せようとするのを止めてはいかがでしょうか。

 

布教活動であればなおのこと、私は宗教信仰とは「様式」であるべきだ、と思います。

 

私は聖書を基本経典とする宗教観に関して、これはこういう「様式」なのだ、と思うことで理解できることが多くなりました。

信じるとなれば心理的障壁も抵抗も高くなるものですが、ひとつの「様式」であると考えることで気を楽にしたまま接することができるようになりました。

そういった「自分と異なる価値観」に接することができるのは有難いことでしょう。

 

信じるか信じないかは…

 

また別問題なのですから。

 

 

と、現在の私の宗教信仰についての考えを書いてみましたが、、、

うん。あまり良くない。

 

久しぶりであるせいなのか、下書きなどをしていないからなのかは分かりませんが、書いていてあまり日本語として筋が通っていないような気がします。

いかがでしょうか。

 

よろしければ、いいね・コメントをお願い致します。

「信仰とは様式である」という記事内容に関してのお考えや同意・反論、また日本語の文としてのご指摘、何でも構いません。

様々なご意見、お待ちしております。

 

それでは、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

おはようございます&こんにちは&こんばんは

 

ブログを覗いてくださってありがとうございます。

 

マツモトでございます。

 

前回ブログを書いてから1ヶ月以上が経ってしまいました。

前々回記事では何やら「自分が何をしたいのか見失ってしまった」なんてことをグダグダと書いていましたが

ある程度自分の中で整理がついたと思いますので、備忘録のため記事に残しておきたいと思います。

 

色々と御託を並べながら「自分探し真っ最中なんです」というオーラ全開の文章を書いてしまいましたが大枠としては

「なんだか自分のしたいことが分からなくなったからゆっくり探したい気分だなぁ、でも自分が生きている意味は欲しいから、社会の中で自分にしかできない役割を与えられたいし、どうせなら自分の能力を向上させながら生きていたいもんだ」

でした。

 

要するに「自分のアイデンティティって何よ」となっていた訳です。

 

「自分とは何か」とふと考えてみたのですが、

なんだか「自分にはこれしかない」と思うことが少なかったなぁ、と気づきました。

「自分にできないことを探していきたい」とかその最たるものですね。

自分にはまだ隠れた能力や才能があるんだ、と信じて疑わない精神…

 

勿論、人間は向上心を失ってしまったら最後成長できないでしょうから、常に高みを目指すべきだとは今も思っています。

但し、時としてひたすらに上を見つめているのが疲れることもありますが。

 

ある意味では「好奇心旺盛」と言えるのかも知れませんが、ずっと自分の未知なることに触れていたいと思って生きてきたように思います。

別の言い方では「飽き性」ですね。

とことんまで「その道をキワメル」ということが正直苦手な体質です。

自分でも勿体ないなぁと思います。

 

なんとなくそれっぽくなったところで満足してしまう。

永遠に何も完成させたり成し遂げたりできない人生ですね。
 
うわ、自分で書いてて悲しくなってきた。

 

とりあえず。

 

「自分にはこれしかない」と今まであまり思ってこなかったぶん、

これからの人生をかけて突き詰めていくものであったり

生涯を捧げたいものが欲しくなってきたのだと思います。

 

言い換えてみると、この「自分にはこれしかない」という気持ちは

「他のことをしている自分は自分ではない」という思いになります。

 

ある意味では自己否定ですね。

 

「自分のしたいこと」を探すより、何をしている自分が「自分でない」のか考え、一つずつ否定していった方が分かりやすいものです。

結果的には「自分は何者でありたいのか」ということへと繋がるのですが。

 

そしてやはり、自分が望む己の姿と社会から求められる役割とが一致していて欲しいものです。

 

例えば今年度などは、私の時間を費やしたことの多くが周囲から求められたタスクでした。

周囲から求められる役割があったということは、ある面では幸せだったのかもしれません。

しかしある時、自分の今していることは本当に自分の望むことではない、という気がしてきたのです。

そうやって、自分の時間を望まないことに費やしているという抑圧状態が続き、ストレスが溜まってくると

不思議なもので「自分のことを認めて欲しい」というような承認欲求がどこからか湧いてきました。

 

ストレスを感じながらタスクをこなしている状態により、どこか自分を否定されているような気がしてきたのだと思います。

 

厨二くさい台詞ですが、

「こんな自分は本当の自分じゃないんだ」

「ホントの自分を見てよ」

「ホントの自分を受け入れてよ」

「ボクを認めてよ!」

みたいな気持ちですね。

 

どこかの某ロボット系都市伝説で取り沙汰されそうなインパクトが沢山起こるアニメの中にありそうな言葉ですね。

 

ニゲチャダメダニゲチャダメダニゲチャダメダ

 

こういった「承認欲求」ですが、中身としては「外部から求められていない自分も認めて欲しい」という感情です。

しかし。

その裏返しは、「求められている自分は、ほんとうの自分ではないと主張したい」という感情です。

 

名付けるならば、さしずめ「否定欲求」といったところでしょうか。

自分のある面を否定したくてしょうがないのです。

 

「認めて欲しい」と言いながら、その実は自分のことを否定したくてたまらない。

なんとも皮肉的です。

 

しかしながら、そうして否定していった先にシンプルな「自分の姿」がくっきりと見えるような気がします。

実のところ、私はまだその域には達していないようには思いますが

自分の中で少し整理がついたように思う今、何かしらのビジョンが見えているような気がしています。

 

結局のところ何かをして生きていくほかないですし、なんとなく無気力を極めて野垂れ死ぬつもりもありません。

ある程度マイペースに生きていきたいと思います。

 

この先も迷うことは往々にしてありそうですが

道として選びきれない、自分では決めきることができない、と思った時があるならば

「これだけは何があっても他人に取られたくない」と思うものは何か考えたらよいのではないか。

そう、思います。

 

ひょっとしたら、それが自分の根幹を為す「アイデンティティ」の核の部分なのかもしれません。

 

 

今回で、少々続いていた「自分探し」系統のブログはひと段落としたいと思います。

こんな内容のブログが世間的に需要があるかと考えると、恐らくないでしょう。

むしろ、自分がいつかこのブログを見返した時に

この頃はこんなことで悩んでいたのかぁ、とか

こういう考え方をしていた頃があったのだな!と

思い出すきっかけになればそれでよいと思っています。

ある意味ではただの日記帳ですね。

 

それこそ、まさしく

「徒然なるままに。」

ですね。(ドヤァ

 

 

それでは、また機会があればお目にかかりましょう。

おはようございます&こんにちは&こんばんは

 

マツモトでございます。

 

前記事「お久しぶりです。」に続いて、パソコンのメモを基にブログを書いていきます。

 

 

昨年2019年10月のメモより。

「自分にとっての自己実現とは「生きている」こと。」

以上です。

 

丁度自己実現について色々と考えている頃だったと思います。

仕事をする意味とは?

お金を稼ぐ意味とは?

生きている意味とは?

人生の目的とは?(爆笑

 

そんなある時、ふと

「どうだっていいじゃないか、生きているのなら」

と思ったのです。

 

何をして生きているのか、というよりも

ただ「生きている」ことの方が大切で

究極の自己実現とは「その日、生きている」ただそのことなのだ

そう思えてきたのです。

 

自己啓発などで、自分が何をするかに焦点を当てていることは多くあると思いますが

殆どその逆の発想だと思います。

 

何をしててもいい。

ただ、その日を自分として生きているのならば

それが究極の自己実現だ。

そんな風に思えた、秋の一日でした。
 

不思議と、2020年の2月の自分では、単純にはこう思えないのですが。

いつか、もう一度この「究極の自己実現」を実感して、心を楽にさせてあげたいものです。

ひょっとしたら「自己実現」というよりも、究極の「自己肯定」なのかもしれませんね。

おはようございます&こんにちは&こんばんは

 

大学の試験が一通り終了しました。

 

手元のパソコンにいくつか残っているメモを基に、久しぶりにブログを書こうと思います。

 

マツモトと申します、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

実は私、今年度が大学4年目にして最終年度でございました。

そのため、先日終了した試験をもって、卒業判定及び成績が確定することとなります。

あくまでも、卒業に必要な単位をすべて取得していれば、の話ですが。

 

今年度、私は就活をしてきませんでした。

また、大学院入試も受験しませんでした。

スタンスとしては、留学志望です。

 

しかし、この後期を駆け抜けてくる中で

再び自分が何をしたいのか、見失ってしまったように思います。

(今までも何度か見失って、その度に再発見してきたのですが)

 

思えば四年前、大学受験のとき。

実は第一志望校の受験に失敗してしまいました。

当時高校三年生だった私は、第一志望に落ちたとしても、第二志望の大学に行こうと決めていました。

というのも、大学受験というステップで足踏みをしたくない、と思っていたからです。

「取り敢えず今は、どこに進むかではなく次のステージに進むことが大事だ」と思っていたのです。

しかし、大学生活を二年ほど続けたころから、一年浪人して自分を深く見つめ直してもよかったのではないか、と思うようになりました。

たとえそれがどれほど辛い一年間になろうと、一度立ち止まって自分を見つめてもよかったのでは、と思ったのです。
しかしながら当時は尚も前に進むしかなく、自分に向き合う時間を取らずに過ごしてきました。
大学四年時となった今年度も似たような状況が続いてきました。

 

ほんとうに、自分が何者か見つめ直すことなく「駆け抜けて」きたと思います。

 

少し、一人で休みたい。

 

そんな気持ちです。

 

 

また、自分が何をしたいのか分からなくなった原因の一つに、ある種の無力感があると思います。

 

例えば自分に気力が湧かず家に引きこもっている間。

底をついた食材を買いにコンビニまで出かけた時。

引きこもっていた自分のことなど関係なしに自動車が道を行き交っています。

そんな時、自分がいなくてもこの世の中は動いているんだなぁ、、と思うのです。

 

論理的に考えれば至極当然のことなのですが。

しかし、心理的にはなかなかきます。

 

また、自分がいなくても世界が動いているのなら

自分がどれだけ頑張ってもこの世の中を変えることなど所詮できない、と感じるのです。

理想論で言えば、世の中を生きる人々が望んで動けば世界は変わるのですが

現実では、自分には何の力も無いなぁ、と思わざるを得ないのです。

 

世の中で「自分にしかできないこと」をするのか

「誰でもできるようなこと」だけど、自分に依頼されて実践するのか

人間はどちらの場合に幸せを感じるのでしょうか。

数ヶ月前、秋になろうかという時分にそんな言葉をインターネット上で見つけました。

私はどちらに幸せを見出すのでしょうか。

自分にできることがはっきりと分かっているのならば、後者のように思います。

しかし、自分に何ができるのか分からないのならば、そして自分の可能性をいまだ信じていて挑戦中ならば。

その場合はきっと前者を幸せだと思うでしょう。

自分にできることがはっきり分かっている、自分の成し遂げられることが明確化しているということは

言い換えれば、自分に為し得ないことが分かっていて、諦めがついているということだと思います。

 

正直なところ、私はいまだに「自分にしかできないことをしていたい」と思っています。

それはつまり、自分の人生の様々な部分に諦めがついていないということだと思います。

 

2019年年末のある日付で、このようなメモが残っていました。

「自分にできないことを探していきたい。」

自分にできることをして生きていくというよりも、自分ができないことに挑戦し自分を高めていきたい。

そんな気持ちがずっとくすぶっているのだと思います。

 

 

私はこの先、何をして生きていくのでしょうか。

 

“答え”が見つかるといいなぁ。

 

そんな風に思います。

おはようございます&こんにちは&こんばんは

 

2019年も残り僅かとなってしまいました。

 

今年自分が為し得たことが何かあるだろうか、と思わず自問してしまうマツモトでございます。

 

さて、今回のブログ記事では{年の瀬にあたって、考えた徒然}と題しまして

ただただぼんやりと考えたことを綴っていきたいと思います。

そのため、大した内容ではございませんのでご容赦くださいませ。

 

それでは参りましょう。

 

去る12月15日、新国立競技場の竣工式が執り行われ

続く21日にはこけら落としのイベントが開催されました。

 

そのニュースを見て、私はふと考えました。

 

間もなくやって来る(使い方次第ではいくらでも胡散臭くなる言葉ですが笑)2020年には

東京五輪が開催されるが、ものみの塔聖書冊子協会の打ち出す

所謂「JW教」教義ではオリンピック観戦に関して何かのたまっているのだろうか、と。

 

オリンピックというのは、その起源を辿れば古代ギリシア世界に遡ることは至極容易です。

私はギリシャ神話に関する知識は皆無で(勿論読んだこともございません)、

歴史学者的な見解も持ち合わせていないため断言はできませんが、

何かの折に読んだものでは確か古代ギリシアの神々に奉げる競技会であったと思います。

 

先日のクリスマスに関しては太陽神崇拝が起源だとか言って

祝いごとへの参加を禁じていることは有名ですが、オリンピックの観戦はどうなんでしょうか。

 

信心深くない私などにとっては「JW教」がクリスマスへの参加や

それなりに歳を重ねないうちの男女の交際、その他諸々の

所謂「世的」行事への参加を禁じているのは

何代目かの統治体メンバーが、そういった行事に参加できなかった過去でも持ち合わせていたのではないか(要するにただのひがみ)、と失礼ながらに思えてくるのですが。笑

 

というのは冗談にしても、恐らくそのようにして我慢を強いることで

信仰や選民感の肯定を促進しているのだろうな、とは思います。

 

jw.orgの公式ホームページ内では、オリンピック期間に合わせて

開催地で文書配布キャンペーンを行った、と宣伝していますが

その帰りや空き時間に証人たちは観戦していませんよね?

なぜならその由来は「エホバ」以外の神を崇拝するものだから?

 

もしこれで、ものみの塔聖書冊子協会がオリンピックのスポンサーなどをしていたら

だたのお笑い種でしかありません。

ま、色々な方が発信されている情報を拝読する限り

そのような資金は殆どないものと推察いたしますが。

 

いずれにせよ、このご時世にあたっては

「異教由来」というレッテルを貼り始めると

殆ど何も生活が成り立たなくなるのではないでしょうか。

 

と、いうよりも、何らかの慣習を否定したり「異教由来だ」と言って参加を禁じたりするのは

反面では、その行事に参加している人々への呪いとなるような気がしてきています。

 

最近は聖書通読がようやっと箴言に到達してきましたが

詩篇や箴言を読んでいて思うのは、意外と呪いの如き語句が多いということです。

詩篇109篇などだったかと思いますが、ダビデの祈りの体裁をとりながら

その実敵対する者を呪う言葉であったりするように思えるのです。

 

この言葉が「愛ある神」の言葉なのか、と。

 

聖書とは本当のところ、どう受け取ってよいものなのか。

謎は深まるばかりです。

「神」を信じている人々は、何を信じているのか。

 

やはり願望としては、こんな怖い神様であって欲しくないものですが。

 

以前、どこかのブログ記事で「一神教とは契約宗教だ」という語句を見ました。

もしかしたら、何かの本に書かれているのかもしれません。

 

唯一神との契約、それは他を排除する呪いと表裏一体なのかもしれない

最近はそう思えてきています。

 

現在の私は、殆ど無宗教です。

色んな方々や世界観と関われば関わるほど

特定の宗教を信じることが難しく思えてきます。

というより、「信じる」とは何か分からなくなってきています。

 

この先、私がどのような考えを抱いていくのかは分かりませんが、

 

 

そろそろブログ記事を書くのに飽きてきたので、本日はここまで。

内容を考えるのも、ブログを書き始めるのも、そして書き終えるのも

すべては徒然な一日です。

 

兎にも角にも、徒然ながらも誠実に一日一日過ごしていきたいものです。

 

それではまた。

おはようございます&こんにちは&こんばんは
 
ふと、思うことがあったためブログを書こうと思ったマツモトでございます。
 
このまま放っておくとブログにも日記にも残さないまま忘れてしまいそうなので
考えがまとまってはいませんが書いてしまおうと、パソコンに向かっております。
 

以前から気になっていたこととして
『我々はどこから来たのか 我々は何物なのか 我々はどこへ行くのか』
ということがあります。
 
19世紀の終わりに、フランスの画家P.ゴーギャンが描いた作品のタイトルではあるのですが
恐らく、誰もが時々疑問に持つ内容ではないのでしょうか。
誰の心にも引っ掛かるタイトルを作品に与えた、という点ではある意味商売上手と言えるのでしょう。
しかしながら、やはり商売上手で終わらせてしまっては勿体ない言葉だと思います。
 
先日のブログ記事では「自分が無気力である」と吐露しました。
最近もまた、特段モチベーションの上がらない日々が続いております。
 
ふと、思いました。
「食っちゃね食っちゃねしている自分、本能の赴くまま『ただ』生きていて、動物と変わんないなぁ」と。
今思うと、たいそう動物たちに失礼な考えですが。
 
「人間として社会的に生活していない自分は、果たして人間と呼べるのだろうか」
「何もしていない自分は、社会の中では何者でもないのではないだろうか」
 
そんな気もしてきました。
 
また、何故だか分かりませんが
「自分が何者であるか」は「自分が何をするか」による
とも思えてきました。
 
自分がコンスタントに行っていること、それが自分が何者であるかということだと思えてきたのです。
 
例えば、日常的に日本語で考え、会話し、生活しているのならば、日本語を母語とする人であるということです。
また、休暇の度に趣味で登山をするならば、趣味の登山家である、と言えるでしょう。
同じように、社会的に生活を安定して営んでいるならば、それは社会的に安定した人間であると言えると思います。
 
明確なことに、現在の私は社会的に《人間》ではありません。
自分のやりたい時にやりたいことをする、ただ単なる我儘な生き物です。
 
ひょっとしたら、人生のある場面ではそういう時期も必要なのかもしれません。
現在の自分を正当化するためだけの身勝手な理論ではあるものの、
生きていく過程において、どこかしらで動物的な暮らしをする時期を経た後に《人間》として暮らせるようになるのかもしれません。
 
そのため、自分が何者かでありたいのなら、それをコンスタントにやり続けなければならないと思いました。
残念ながら、未だ深く自覚し納得した境地には至っておりません。
しかし、他人によって何者であるかを決められるのではなく、自らの行っていることがその人を性格づけるとすれば。
いつかきっちりと生きていくことができるのではないか、と思っています。
 
自分の中で納得できていない理由としては、
「何者かであるためにはそれをコンスタントに行わなければならない」ということと「社会の道理」という言葉が直観的に結びついたからだと思います。
もしかしたらそれ以上の答えはないのかもしれませんが、社会の仕組みとして甘んじて受け入れるのではなく、自分の中できっちりと納得したいと思っています。
 

本当は、何者でもない自分を、社会に受け入れて欲しいのかもしれません。
だからこそ、何者でもない自分を演じ続けて「自分は何者でもないんだ」と心の内で叫んでいるのかもしれません。
周囲に何者かであることを期待されるのが、しんどいのかもしれません。
期待というのはとても有難いことでありながら、大きなプレッシャーでもあるのです。
 
「自分は何者でもない、ただの裸同然の一個人に過ぎないんだ」と、叫びたくてしょうがないのかもしれません。
 
いつかは、自分から「何者かでありたいから、これをする」と行動したいんです。
言い換えれば、自分が何者でありたいか、今はまだ答えが出ていない、ということかもしれません。
 
でも、必ず、自分から動きたい。
 
 
この言葉は、昔から憧れです。
 
ただのマツモトでいたくなくなる日が、そう遠くないことを願って。
今はただ、その日を目指して生きていきます。
 

今日の記事は、とてつもなく甘い考えの内容だと思います。
現在はなんとか大学生で、モラトリアム真っ只中だから許されるものの、もうすぐこんな考えは許されなくなるのでしょう。
だからこそ、その前に、モラトリアムから抜け出して、自分の足で生きていきたいと思います。
 
もしよろしければ、そっと応援しながら、見守って頂けますと幸いです。