おはようございます&こんにちは&こんばんは
初見さまは初めまして。
以前よりブログを読んでくださっている方はお久しぶりです。
このブログは「徒然なるままに。」という題名のもと、気の向いた時に気の向いた内容を書くブログなのですが、気づいたところ半年間アップデートを行っておりませんでした。
まさに「気の向いた」時にしか書いてないからこその更新頻度だとは思いますが、その間にも色々考えることはありますので、備忘録がてらいくつか記事を書こうかなぁとパソコンに向かっております。
さて、私がブログを更新していなかったこの半年間、世間は新型コロナウイルス(COVID-19)感染症騒動ですったもんだしていました。
勿論、2020年9月が終わろうとしている現在でさえも世界的には収束していませんし、この先インフルエンザも流行することでしょう。
取り敢えずは、今の所当ブログの管理人は無事生きております。
あ、申し遅れました。
マツモトと申します。
直近の記事いくつかは大学生・若者らしい「自分探し」的な内容であるのですが(今後も似た内容の記事を書くかもしれません)、元々はJW(エホバの証人)関連の記事をメインに、宗教について考えるブログを書いていました。
今回は久しぶりに宗教信仰についての最近の私の考えを記しておこうと思います。
当然ながら記事を書いている時点での考えであり、いずれは変わるかもしれません。
その際には、機会があればまたブログ記事にでもしようかと思います。
それではさっそく。
ずばり「信仰」とは、私の考えでは所謂「様式」です。
エホバの証人の方々の「聖書研究」又は「聖書レッスン」というものに参加していると基本的に「ものみの塔聖書冊子協会」の出版物(定期的に発行される機関誌であったり教義体系を解説する冊子であったり)に基づいて話を進めていくのですが、読んだり説明を受けたりする度に得体のしれない違和感を覚えるのです。
それはエホバの証人が“キリスト教三大異端”の一つに数えられていることや、彼らの普段使用する聖書が「ものみの塔聖書冊子協会」の発行する「新世界訳」という、誤訳やキリスト教主流派の解釈とは異なる解釈のオンパレードであることに起因するものではありません。
ただただ、妙に理屈っぽいのです。
一つの事柄を説明するのに、例(それも出版元の本国がアメリカであるが故に日本の一般実情とはかけ離れた例が殆ど)をいくつもいくつも挙げたりだとか、聖書の記述(彼らも、恐らくキリスト教主流派諸派もそれを「聖句」と呼ぶ)を異なる箇所から複数引用してきて無理矢理繋げてその事柄に帰着させたりだとか、兎にも角にもストレートではないのです。
「ものみの塔聖書冊子協会」の示すエホバの証人の信じる教義は、教義ありきで書かれる出版物のためにそれらしい根拠となる聖句を探してきて構築されるものであって、聖句の吟味と深い洞察によって組み立てられたものではないとはよく言われることだと思いますが、もしかしたらこれも妙な理屈っぽさの一因となっているのかもしれません。
しかし私は、宗教とは「絶対的に何が何でも」というある種の強さが必要だと思うのです。
言い換えるならば理屈を抜いた領域とでも言うもの。
聖書を信じる方々にとって「聖書に書いてある神を知らない、又は信じない者」は不幸な人であると思うのですが、端的に言うなればそういった考え方です。
不幸であるとまで言わなくとも、恐らく「それは本当の幸せじゃないよ」というのではないでしょうか?
聖書とそこに書いてある神を信じる方々にとっては、神に赦され、来たるべき世界において神と共に永遠に生きることが無上の幸せであるのだと思うのです。
正直、およそ理解し難い価値観です。
現在の私は聖書とそこに記されている神に信仰を持っている訳ではありませんので、上の書き方にも誤りや偏見、語弊があるかもしれません。
しかし理解も納得もし難い。
だから、宗教とは理屈ではないのです。恐らく。
理屈では理解も納得もできないのだと思います。
しかし、こんな私が上の様な価値観を受け入れるために手っ取り早い言葉があることも知っています。
「それは、そういうものなのだ」という言葉です。
理屈を抜いた領域であり、理解できる範疇を超えたもの、価値観。
「それはそういうものなんだ」と思うこと。
そう思うならば、私も受け入れられると思います。
だからこそ、宗教信仰とは「様式」なのです。
「これが正しい」という様式。
「これが善」という様式。
「これが神にとって良い」という様式。
全て理屈を抜いて「そういうものなのだ」と受け入れる。
それが「信仰」であると思います。
だからこそ、異なる宗教信仰を持った人とは価値観が相容れないということが起こります。
早い話が「生まれた星が違うのだ」ということです。
仕方ないことです。
そして、私にとって宗教とはそういった「様式」の集合体でしかないために、理屈で説明しようとしてくる教義には違和感を覚えるのです。
単純に「そういうものなのだ」とだけ告げてくれるのならば素直に受け入れられるのに、散々に理屈をこねくり回して説明してこようとします。
そして現代日本の実情にそぐわない説明が書かれていたり、又はその理屈が中途半端に矛盾や破綻を抱えているものであったりすることが更なる違和感へと繋がります。
要するに、例示や説明などは最小限あれば事足りる、場合によっては必要ない、ということです。
しかし、このように書くと「教義を無条件に受け入れる、そのような姿勢は思考停止状態だ」と言う方もおられることでしょう。
ならば敢て私は言いましょう。
「思考停止で何が悪い」と。
本来、宗教信者の多くを占めていた一般庶民は恐らく教義を深く理解していなかったことだろうと思います。
想像してみてください。
中世ヨーロッパ世界において、農民の方々は聖書の内容を真に理解していたのでしょうか。
聖書のどこに何が書かれていて、その故にこの教義が存在する、と理解していたのでしょうか。
恐らくそこまで理解しておられる方は多くなかったのではないか、と私は思います。
識字率や聖書普及率の問題ではありません。
単純に、農民の方々はその生活で手一杯だったと思うからです。
逆に時間を持て余す身分の方々でないと、自ら聖書を理解しようとはしなかったでしょう。
ただ難しい理屈などなく、お祈りしなさい、と教わった方が多かったのではないかと私は思います。
本来、一般庶民にとっての宗教信仰とはそれでよいのだと思います。
ところが「みなが聖書を自ら読み理解するべきだ」という世界になってしまいました。
詳しいところは間違っているかもしれませんが、私はルネサンス以後の啓蒙主義によってこの変化が起こったような気がします。
「知ることが幸福に繋がる」という価値観が、エホバの証人の信ずる教義を始め、キリスト教の多くの思想の根底にあるように思います。
忘れてはなりません。
エホバの証人も、その前身となり現在では別の団体となっている「国際聖書研究者協会」も、立場やその組織がよく似ている「末日聖徒イエス・キリスト教会」(設立年代はこちらが先)も、すべてキリスト教プロテスタントの思想から分派しているもののはずです。
「新世界訳聖書」などはその最たるものです。
そしてそのプロテスタントもまたキリスト教カトリックから分派したものでもあり…
恐らく「知ることが幸福に繋がる」価値観は、イエス・キリストが復活の後に弟子たちに告げたという言葉にまでその根源を遡ることができるのでしょう。
未だ神を知らない者にその存在を知らしめよ、そして弟子とせよ、と。
ここで「知らぬが仏」という諺をわざわざ引っ張り出す必要はないとは思いますが、私は「知ることが幸福に繋がる」と本当に言えるのか?と問いたくなります。
これもまた一つの価値観であり「様式」である、と言ってしまえばそこまでですが、ならば逆にそこまでにしておいてはいかがでしょうか。
異なる価値観を持ってる人に対して、その価値観を押し付けるのはどうなのか。
または単純に価値観と「様式」として提示し、相手を理屈でねじ伏せようとするのを止めてはいかがでしょうか。
布教活動であればなおのこと、私は宗教信仰とは「様式」であるべきだ、と思います。
私は聖書を基本経典とする宗教観に関して、これはこういう「様式」なのだ、と思うことで理解できることが多くなりました。
信じるとなれば心理的障壁も抵抗も高くなるものですが、ひとつの「様式」であると考えることで気を楽にしたまま接することができるようになりました。
そういった「自分と異なる価値観」に接することができるのは有難いことでしょう。
信じるか信じないかは…
また別問題なのですから。
と、現在の私の宗教信仰についての考えを書いてみましたが、、、
うん。あまり良くない。
久しぶりであるせいなのか、下書きなどをしていないからなのかは分かりませんが、書いていてあまり日本語として筋が通っていないような気がします。
いかがでしょうか。
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「信仰とは様式である」という記事内容に関してのお考えや同意・反論、また日本語の文としてのご指摘、何でも構いません。
様々なご意見、お待ちしております。
それでは、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。