<神人さんFBより>
【神人靈媒日記 2021.12.2】
〜靈人との対話/故 秦河勝氏の御靈〜
12月1日 京都に来て20年が過ぎ、太秦に暮らしてもうじき15年にはなろうかという今日この頃。己に与えられた一つの使命に対して思うところがあり、改めてこの地に対して理解を深めようと、先ずは太秦の氏神である大酒神社に参拝し、御靈人方に挨拶をさせて頂きました。その後、かつて暮らしていた近所でとある、秦一族の祖靈を祀る蛇塚古墳に足を運びお参りしてきました。
そして翌朝、とある靈人が話し掛けて来られました。
私: あなたはどなたですか?
靈: 河勝だ。
私: 秦河勝氏の御靈ですか?
靈: そうである。そなたはようやくその気になってくれたようだ。誠に嬉しい限りだ。礼を申す。
我が一族は弥勒菩薩を奉り、遡ることミスラ神への信仰へと繋がる。
しかし、なぜ祖先たちはミスラ神を崇拝して来たのかが、そなたのお陰でようやく分かった。
かつて我が一族は、遠く離れた地より来訪してきた異国の民であった。神の国造りに命を受け、この地に来たとされている。そなたもまた、かつて我が一族であった生がある。故に以前、その話をさせて頂いた。
私: わたしたちが太秦に引っ越してきた際、話し掛けて来られた御靈は、貴方でしたか?
靈: そうだ。そなたが我が一族の聖地に暮らしていた頃の話だ。あの場所(太秦御所ノ内町)は、限られし者たちがかつては暮らしていた。我が一族の繁栄が為された都の中核であった頃の話だ。祖靈を祀り、墓を建設いたし、我が一族は周囲に暮らしていたのだ。我等は祖先たちが暮らした何代も後の世代となる。そなたに我が一族のことを学ぶように申したのは、我等も共に学び真実を知りたかったためでもある。我等の時代では知り得ないことも、そなたなら知ることが出来ると考えたからだ。
私: では、2008年でしたか、突如偶然にも良き物件が現れ、急遽引っ越すことにしました。花園の地より太秦の地へと、わたしたちを導いたのは、あなた方、秦一族の靈団によるものだったのでしょうか?
靈: そうだ。結果的にはそういう経緯となる。我等が目醒めたそなたを靈媒として利用し、我等の真相を世に伝え広めさせる目的であったが、時は流れて我等がそなたより祖靈らの歴史を学ばせてもらうためという目的へと移り変わってきたのだ。その目的の移行が意味するところは恐らく、我が一族の祖靈らのお計らいであると、我等は思う。
私: 分かりました。灯台下暗しとは言え、今更ではございますが、これから勉強いたし世に伝え広めて参りたいと思います。
靈: そうしてもらえれば、我が一族皆々快く思う。この地に至るまでと、この地に来てからをまとめてくれれば幸いである。必要な資料も繋いで参る。我が一族の生まれ変わりとしてもある故、そなたに一存して参る。
私: ありがとうございます。時間は掛かるかとは思いますが、わたしなりにまとめさせて頂きます。
靈: 我ら一族靈団は、そなたと共にある。この国の歴史を紐解くことになるであろう。隠された真の歴史が甦ることを願っている。かつてこの地に神の国が創られたことを伝えよう。それは祖靈らが切望された大義であった。「太秦」の名にすべてを記した。詳細をまとめ上げ我が一族の歴史を後世に伝えてほしい。
私: 分かりました。謹んで可能な限り努めさせて頂きます。どうか今後とも御指導御導き頂きますよう宜しくお願い致します。
2021.12.2 神人 拝
603年 秦一族は広隆寺建立。国宝第1号の弥勒菩薩半跏像を蔵する
弥勒信仰=景教=ネストリウス派キリスト教
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<蛯名健仁さんFBより>
八幡神社・稲荷神社とは
秦一族が建立した、東方キリスト教 “景教” の神殿⁉︎
神社の御祭神というものは、権力情勢に応じて入れ替えられるものでもあります…。
日本で、1番・2番の社数を誇る八幡神社と稲荷神社を建立したのは、すべて秦氏です。(※財源&技術を提供)
秦一族=秦王朝の末裔=朝鮮から日本へ帰化した一族
京都・太秦を拠点に都造りを任され
天皇家の裏方役に徹した大富豪一族。
目醒めよ!日本人!ᕦ(ò_ó)ᕤ
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<蛯名健仁さんFBより>
【秦氏】
◆どんな人たち?
古代に朝鮮半島から渡来した氏族。『日本書紀』応神天皇条に,秦始皇帝(しんのしこうてい)子孫という伝承をもつ弓月君(ゆづきのきみ)が多数の民を率いて渡来したのに始まるとしますが,「はた」は古代朝鮮語で海の意であり,実際は5世紀中頃に新羅から渡来した氏族集団と考えられます。山城国葛野郡(かどのぐん)太秦(うずまさ)あたりを本拠とし,近畿一帯に強い地盤を築きました。
秦氏にはいろいろな伝承があり,代表的なものは,雄略天皇の頃,族長の秦酒公(はたのさけきみ)が全国に分散していた180種の勝(すぐり,部)を集め,調・庸の絹をうずたかく盛り朝廷に献上して禹豆麻佐(うずまさ)の姓を与えられ(『日本書紀』),太秦の地名もこれに由来するというものです。
◆その業績は?
秦氏は,高度な技術力と豊富な経済力をもっていたため,桂川に灌漑用の大堰を作って嵯峨野(さがの)一帯を開墾し,養蚕や機織などの新しい技法を伝えました。
7世紀始めに、財力を蓄えた秦河勝(はたのかわかつ)は,聖徳太子から仏像を賜って,太秦に蜂岡寺(はちおかでら,現広隆寺)を建立しました。このような技術力や経済力をもった秦氏の中には,奈良時代に官僚になったり,中央貴族と姻戚関係を結んだりするものもいました。
桓武天皇は,延暦3(784)年,仏教色に染まりすぎた平城京を離れて新しい地を求めて,山背国(やましろのくに)乙訓郡(おとくにぐん)長岡に遷都を行いました。秦氏は,造宮長官藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の母が秦氏の娘であったため,造都に全面的な協力をしたといわれています。
長岡京は10年で廃され,同じ山背に平安京が造られますが,そこでも新都建設に秦氏が尽力し,秦氏の本拠地であった桂川一帯は,建設に必要とする材木の陸揚げ基地となりました。
長岡京は,都としてどこまで整備されていたか疑問視されていましたが,近年の発掘調査で都城形体がかなり整っていたことがわかっています。
再度平安京へ遷都するのにはかなりの困難が伴ったはずです。それをやり遂げた桓武天皇の背後には,山背地域を本拠として高度な技術力と財力をもっていた秦氏がいたからできたことだといわれています。
内裏の紫宸殿(ししんでん)前の「右近の橘」(うこんのたちばな)は,秦河勝の邸宅にあったという伝承があります。これは,早くから山城盆地に住んでいた秦氏が,内裏にあてられるようないい土地を所有していたということを示す伝承です。
平安京遷都後の秦氏は,官僚として活躍し,主計寮・大蔵省・内蔵寮の役人として名が残っています。元慶7(883)年,秦氏は惟宗朝臣(これむねのあそん)に改姓し,明法家を輩出します。各地方には秦姓も多く,在庁官人や郡司として名を残しています。
◆歩く・見る
◇広隆寺(こうりゅうじ) 右京区太秦蜂岡町
・広隆寺
真言宗別格本山。別称太秦寺・蜂岡寺。『広隆寺由来記』には,広隆は秦河勝の実名とされますが,寺名の成立時期は不詳。
秦河勝が,推古11(603)年聖徳太子から仏像を拝受し蜂岡寺を造営し,推古31(623)年に新羅から送られた仏像を葛野秦寺に安置したと記されます。
広隆寺という寺名が文献に現れるのは,承和5(838)年ですが,飛鳥時代にさかのぼる仏像が伝わることや,出土瓦からその起源が飛鳥時代にあることをうかがわせます。
太秦の地は,秦氏が葛野郡に拠点を築いた五世紀以降特別な地として重要視されたものと思われます。度々火災にあい,現在の建物は平安時代末期以後のものです。戦後に国宝第一号に指定された木造弥勒半跏思惟像は飛鳥時代のもので特に有名です。
・大酒神社(おおさけじんじゃ) 右京区太秦東蜂岡町
本殿に秦始皇帝・弓月君・秦酒公,別殿に呉織神(くれはとりのかみ)・漢織神(かんはとりのかみ)を祀ります。広隆寺の鎮守神。
仲哀天皇の頃,秦始皇帝の子孫功満王(秦氏の祖)が来朝し,大酒明神を祀ったのに始まるといい,その後秦氏が農耕殖産の神・悪疫悪霊を避ける神として氏神としたと考えられます。『延喜式』には大辟神社(おおさけじんじゃ)とみえ,大酒神は大辟や大避と書かれ,「酒」は「避」(さけ)で道の神であったといわれます。
もとは広隆寺の一隅の桂宮院(けいきゅういん)境内に祀られ,秦氏の氏神社になっていましたが,明治の神仏分離令で現在地に移されました。
◇太秦の牛祭り
10月10日夜に行われる広隆寺の祭礼で京都三奇祭の一つ。またかつて広隆寺境内にあった大酒神社の祭りともいいます。
寺伝によれば,恵心僧都源信(えしんそうずげんしん,942~1017)が極楽浄土を求めて念仏会を始め,天台系の常行堂守護神として祀られる異形の神である摩多羅(またら)神を守護神としました。国家安穏・五穀豊穣・悪疫退散を祈る農民の素朴な祭りと合わさって伝えられたものと考えられています。
三角鼻の紙面をつけ牛に乗った白衣の摩多羅神と,紙の面をつけた赤鬼・青鬼の四天王が,境内や周辺を一巡し,薬師堂に来ると牛を降り,祭文を読みます。終ると神と鬼は薬師堂に駆け込み,観衆は厄除けになる祭文や面を奪おうとしてもみ合いになります。
かつては夜2時に行われ,仮面・装束・行動ともにより奇怪であったといい,絵巻や図絵などに残っています。
◇蚕の社(かいこのやしろ) 右京区太秦森ヶ東町
正しくは,木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)。祭神は天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・瓊々杵命(ににぎのみこと)・大国魂神(おおくにたまのかみ)・穂々出見命(ほほでみのみこと)・鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)。
秦氏ゆかりの神社で,『続日本紀』大宝元(701)年にその名が見え,『延喜式』にも名神大社と記されます。平安時代には祈雨の神として信仰されました。本殿右にある養蚕神社(こかいじんじゃ)は,養蚕・機織・染色技術に優れた秦氏にちなんで蚕の社と呼ばれることから,これが通称となりました。
境内には,元糺(もとただす)の池があり,賀茂明神はこの地より下鴨糺森に移ったといい,糺森の名はこの池に発祥すると伝えられます。池の中に,明神鳥居を正三角形に組合せた三鳥居(みつとりい)があります。京都市指定史跡。
◇松尾大社 西京区嵐山宮町
祭神は,大山咋神(おおやまぐいのかみ)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。『延喜式』で名神大社に列しています。大宝元(701)年秦都理(はたのとり)が神殿を建立し,その一族が長く社家を務めました。天平2(730)年には大社の称号を得ました。平安時代は,王城鎮護の社として,東の賀茂,西の松尾と並び称されました。中世以降は造酒神として崇敬されました。
社殿背後の亀の井の水は,酒が腐敗しないといわれ,醸造家が汲んで酒水に混ぜる風習があり,今も境内には奉納された多くの酒樽が並んでいます。
◇伏見稲荷大社 伏見区深草藪ノ内町
現在は商売繁盛の神であり,全国3万余りを数える稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社は,もとは稲成(いねなり)つまり穀霊を祀るものでした。『山城国風土記』の逸文に由来がみえ,秦中家忌寸(はたのなかつえのいみき)らの遠祖秦公伊侶具(はたのきみいろぐ)が稲を積んで富み栄え,餅を用いて的にしたところ白鳥となって飛び去り,山の峰に至りました。そこに「伊禰奈利(いねなり)生え」,ついに社としたということです。
伊奈利社の祭祀が秦氏によってなされ,その子孫が歴代稲荷社の祠官となりました。天長4(827)年東寺の鎮守となり,中世には民間の稲荷信仰として広がりました。社殿は,永享10(1438)年,山上より麓の現在地に移されました。
◇葛野大堰(かどのおおい) 西京区嵐山渡月橋附近
葛野大堰は,5世紀頃に秦氏が造ったとされる,川からの取水のための井関です。これにより一帯は農耕が可能な土地になりました。正確な位置は不明ですが,葛野川(桂川)の渡月橋(とげつきょう)附近と推定されています。
現在のこの附近を大堰川(大井川)と呼ぶのは葛野大堰が築かれていたからです。
道昌(どうしょう,798~875)は讃岐出身の僧侶。俗姓は秦氏。神護寺で空海の教えを受けました。その後,秦氏が創建した広隆寺に入り復興し,秦氏の建設した葛野大堰を修復しました。
◇蛇塚(へびづか) 右京区太秦面影町
蛇塚
6世紀末ないし7世紀初頭の築造と推定される嵯峨野の首長墓群の中では最大規模の古墳。当地一帯を本拠とした秦氏一族の統率者を葬った墓と考えられています。もとは全長約75メートルの前方後円墳でしたが,現在は封土を失い,巨大な横穴式石室のみが住宅地の中に残っています。国指定史跡。
■ https://search.yahoo.co.jp/.../%3Fusqp...
■ https://www2.city.kyoto.lg.jp/.../htmlsheet/toshi01.html
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京都市・太秦に住んで15年になりますが、太秦の蛇塚古墳の裏(太秦御所ノ内町)に暮らし始めた頃、秦氏の靈人がわたしの所に現れ、「秦を表に出しなさい。お前の過去生には秦がある。」と告げられたことを、今でもはっきりと思い出されます…。
現在に至る日本社会の基盤を築いたのは、秦一族の功労(知力・財力・技術力・指導力)でありますことをお伝えします。
目醒めよ!日本人!(^人^)
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(Thanks to 神人さん・蛯名健仁さん, 松原幸宏さん)
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