4月早々、足の小指を骨折した。
少し前に息子が鼻骨折、折れる時には荒れるものだなぁと思った。
それでも、私の微々たる骨折などお構いなしに日々は続くし、
「いててて...」などと言いながらも過ごせるものだから、小さくバタバタとしているうちに、桜はいつの間にか葉桜になる準備をはじめていた。
お花見チャンスもあったけど、
息子たちは、桜より楽しいことを見つけてしまったようではじめてお花見をしなかった春である。
そのかわり、強い雨風のあった翌日に折れて瀕死の桜を拾い、咲けないままの蕾たちを咲かせることができた。
でも、そのまま地に還ることを望んでいたかもしれないなとも思い少し心が痛くなった。
喜ばしい話があったけど、掴んだすぐに泡みたいに消えてしまったりもした。
絶望癖のある私、
毎度お馴染みのあの時間が来るのか、、なんてことを思いながら過ごしていた。
が、来ない。
そのかわりに胃が痛くなった。
心と体は繋がってるのだなぁと思いつつ、明確に現れてくれたおかげで「痛い」という言葉を言いたいだけ言ってしまう。
そして今年は長男が初めて「しんどい」という言葉を使った春ともなった。
体ではないところの痛みにようやく気づいたようだ。
私が心配性すぎるのか?だとか、思い込み激しすぎて勘違いしてるだけなのか?などと思うこともあったけど、
本人の口から自発的に聞けたことは大きな進歩な気がした。
しんどさに気づけたなら、救いは始まる。
もっともっと早くに言える環境を作ってあげられたはずなのに、、と後悔はしない性分ながら、物凄く後悔した。
なかなかに荒れた春、 春荒か。
けれど、何故だかいつもとはすこし違うところに居るような感覚で過ごせている。
闇に覆われては光の矢に破られ、
その光を大きな闇に食べられては、
その闇ごと光が優しく包み、
それをまた黒い一滴で闇に染める。
心臓が止まるまで、
エンドレスに続くそれごとまるっとひとつ
「それ」を持っているという感覚、実感がある。けれどすぐ忘れて、でもまたそれを見つけて拾って、でもまた忘れて、また知るような。
傷んでも、痛んでも
何度も消えたいと思っても
何度だってたったひとつの「それ」を
見つけて広げて見つめてまた畳み、
心にしまうように空に放って
私はまた今日を生きるのだろう。
そんなことを思えた時、この目の前の景色がひとつひとつ意味を成していることに気づく。
何度も違う形で出逢えるのだということを
また噛み締める。
全何巻かもわからない物語のページを
めくる1秒前に、私はいつも立ってるのだと思った。