純粋な意識

人生の過去と未来は幻です。  

私たちに光が当てられているのは、

「いま、この瞬間」現在だけです。

「いま、この瞬間」を生きましょう。

そして「本当の自分」を見つけて、

人生に「幸せな物語」を創造しましょう。



  • 20Oct
    • 実在

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」『実在についての四十頌』(ウラドゥ・ナールパドゥ)・・・我々は世界を知覚しているため、単一ながら多様性を現す力の源が存在することを認めねばならない。名前と形の織り成す、画像、観客、スクリーン、それらを照らし出す照明。これらはすべて真我である神に他ならない。どの宗教教義も、個人、神、世界という三位を根底に置いている。「一つが三つになる」、「三つは常に三つだ」などと言えるのは、自我が生き残っている間だけだ。「私」を消し去り、真我の内にとどまることこそ至高の境地である。世界と心はともに現れ、ともに消え去る。世界は心の光によって輝く。世界と心がそこから現れ、そこへと消え去る源、それは現れることも消え去ることもなく永遠に輝く。それが実在である。真我は叡智である。ただ「それ」だけが真理である。多様な知識は無知でしかない。偽りでしかない無知でさえ、真我を離れては存在しない。多様な金の装飾品が素材である金を離れて存在するだろうか?「私」が現れて、初めて「あなた」や「彼」が現れる。だが、「私」の本性を探求して自我が破壊されれば、「あなた」も「彼」も消え去る。そのとき「一者」として輝く存在、それが真我である。過去と未来は現在に依存している。過去は現在であったし、未来もまた現在となる。ただ現在だけが永遠に存在している。この時間の真理を知ることなく、過去や未来を知ろうとすることは、「一」を抜かして数を数えるようなものだ。水中に落ちたものを見つけるため、水底深く潜る人のように、言葉と呼吸を制御して、自己の内に深く潜り込むことで、人は自我の湧き起る源を見出さなければならない。実在は生きとし生けるものすべてのハートの内に宿る。それを悟り、それとしてとどまる代わりに、「それは存在する」、「それは存在しない」、「それは形を持つ」、「それは形を持たない」、「それは一つだ」、「それは二つだ」などと論争するのは、無知から生まれた幻想のせいである。行為者としてあるかぎり、行為の報いを受けることは免れない。だが、「行為者とは誰か?」と探求して真我を実現すれば、行為者という観念は消え去り、三つのカルマは終焉する。これが永遠の解脱の境地である。「私は束縛されている」と感じているかぎり、束縛と解放という観念は続いていくだろう。「束縛されている私とは誰か?」と探求すれば、常に自由で、永遠に輝く真我だけが残る。束縛という観念が消え去れば、自由という観念も消え去るのだ。「身体をともなったもの、身体をともなわないもの、身体のあるなしにとらわれないもの、この内のどれが真の解放か?」と問われたなら、私はこう言う。「解放とは、身体をともなったもの、身体をともなわないもの、身体のあるなしにとらわれないものといった議論をする自我の消滅である」と。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 18Oct
    • 教え

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」『教えの精髄』(ウパデーシャ・サーラム)・・・心がハートの源に融け入ることこそ、カルマ(行為)、バクティ(帰依)、ヨーガ(瑜伽)、ジニャーナ(知識)である。心が外的な対象を手放して内に向かい、それ自身の輝ける姿を見るなら、それが真の叡智である。心は想念にすぎない。すべての想念は「私」という想念に依存する。それゆえ、心とは「私」という想念にすぎない。この「私」はどこから立ち現れるのか?と内面を探れば「私」は消滅する。これが叡智の探求である。「私」が融け去るところに、真我は自ずと「私―私」として現れる。それが無限なる至高の存在である。存在する「それ」を知る他の存在はない。それゆえ、存在は意識である。私たちは意識なのである。すべての属性を消し去った自分自身を見ることは、神を見ることである。なぜなら、神は私たちの真我として輝いているからである。真我を知ることは真我として在ることである。なぜなら、真我に二元性はないからだ。これは実在に確立(タンマヤ・ニシュター)された境地である。真の知識は知識と無知の両方を超越する。なぜなら、純粋な知識の中に、知られるべきことは何もないからである。自己の本性が知られるとき、人は始まりも終わりもない不滅の意識と至高として在る。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 14Oct
    • 太陽

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」生命は太陽の光で成長します。太陽は、何も欲しがりません。太陽は、何も期待しません。太陽は、目的や目標がありません。太陽は、影響を受けません。太陽は、ただ輝いています。たとえ雲が太陽を遮っていても、太陽は空を去ったわけではありません。同様に、思考が純粋な意識を遮っていても、純粋な意識はハートを去ったわけではありません。「思考」とは「雲」です。「純粋な意識」とは「太陽」です。思考とは、来ては去っていき、現れては消えていく雲のようなものです。それゆえ、何も欲しがらないことです。何も期待しないことです。世間の中で活動的に働きながらも無欲で、自己の本性を見失わない人こそ真の賢者です。太陽のように、ただ輝いていましょう。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 10Oct
    • 世界

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」「世界はどこにあるのでしょうか?」「目覚めの間には世界が知覚されますが、眠りの間には世界が知覚されないのはなぜでしょうか?」それは、「私」が不在だからです。「私」という想念があるときに世界は知覚されます。それゆえ、「世界は想念の中にあります!」世界を知覚するには「私」が必要です。眠りの状態(純粋な意識)↓目覚めの状態(私)↓自我、想念、心、観念、身体、世界(幻影)「私」という自我が現れることにより、主体と対象物という二元性の概念が起こります。そして、人間の不幸は対象物によって起こります。もし対象物がそこになければ、それに即して起こる想念もなくなり、不幸は消え去ります。眠りの中には二元性も欲望もありません。一方、目覚めの状態には二元性があり、欲望もあります。二元性があるがゆえに、対象物を獲得しようとする欲望が起こるのです。二元性と欲望の根本は、外側へと向かう心です。もし、至福が「純粋な意識」そのものであると知れば、心は内側へと向かうでしょう。目覚めの時に眠りの状態を実現することができれば、私たちは永遠の至福と平和を実現できるのです。真の存在は対象的知識のない「一なるもの」であり、それが絶対意識です。それは誰もが認める幸福の境地です。それは、「目覚めた眠り」(ジャーグラト・スシュプティ)と呼ばれています。それが解脱(ムクティ)です。「目覚めた眠り」を実現するには、「私」の視点を、その源である「純粋な意識」に向けることです。そうすることによって、「私」と「私」が出会い、「私」は「純粋な意識」に融け入り、二元性は消滅し、「すべてはひとつ」になります。世界とは心の投影であり、単なる観念に過ぎません。観念は思考の中にあります。それゆえ、「世界は思考の中にあります!」応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 09Oct
    • 沈黙と静寂

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」動物界は、獲物を狙うとき、そこに沈黙と静寂が在ります。植物界は、常に沈黙と静寂で在ることで、たくましく成長します。鉱物界は、その存在自体が、沈黙と静寂です。「自然の真理を理解しましょう!」他人に屈辱を与えられたとき、抵抗や仕返しはその救済策とはなりません。ただ静かにしているのです。この静かに在ることが、傷つけられた人に安らぎを与えます。そして、その静かに在ることが、過ちを犯した人に不安を与え、自身の過ちを認めさせるのです。聖書には、「唇を大きく開くものには滅びが来る」と説かれています。沈黙と静寂は、最大の武器であり、最大の教えであり、最大の恩寵です。それゆえ、静かにしていましょう、穏やかにしていましょう。「沈黙と静寂」とは、まさに「純粋な意識」です。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 08Oct
    • ネックレス

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」ある女性がネックレスをつけていました。彼女はそのことを忘れ、なくしてしまったのだと思って、必死に探しましたが見つかりませんでした。そこで彼女は友人に、どこかで見つけたら知らせてほしいと頼みました。すると親切な友人の一人が、ネックレスはあなたの首にかかっていると告げたのです。探していた女性は、ネックレスが見つかったことをとても喜びました。あとに他の友人に出会った時、ネックレスが見つかったかどうかと尋ねられました。彼女は、「ええ、見つかったわ!」と言いました。あたかも失ったものを再発見したかのように。しかし実際は、一度もそれを失ってはいず、見つけ出したわけでもありません。ネックレスとは「純粋な意識」です。探していた心とは「思考」です。「純粋な意識」は、常にあなたの内に在ります。「永遠の至福はココにあります!」応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 07Oct
    • ハート

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」ハートは通常、「胸の左側に位置する心臓だ」と見なされています。『現代心理学評論』は、「身体的臓器は左側に、ハート・センターは右側にある」と述べています。『聖書』は、「愚か者のハートは左に、賢者のハートは右にある」と述べています。『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は、「二つのハートが存在する。一つはサンヴィット(意識)、もう一つは血液循環の器官である」と述べています。『ウパニシャド』が説くハートは、「フリダヤム」(霊的中心)のことです。それは、「これがセンターだ!」を意味しています。それは、そこから心が立ち現れ、そこに沈みゆくところ・・・それが真我実現の座です。ハートとは、神の住処ですが、自我によって生まれた「私は身体だ!」という観念のために、神の王国はどこか他にあると思われています。しかし、ハートこそが神の王国なのです。ハートとは、純粋な意識、真我、エネルギー、愛、至福、平和・・・などと同義語です。「神の王国は、あなたの内側にあります!」応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 06Oct
    • 「いつも覗いて下さる方々、感謝します」影はその存在を太陽に依存しています。影としては現実ですが、それは同時に非現実です。影とは「思考」です。太陽とは「純粋な意識」です。すべての現象は、その存在を「純粋な意識」に依存しています。「純粋な意識」は現象を超越していますが、すべての中に内在しているのです。「思考」とは「偽の自分」です。「純粋な意識」とは「本当の自分」です。それゆえ、「思考」と自己同一化するのではなく、「純粋な意識」で在りましょう。非実在である幻影を見るのではなく、実在する光を見ましょう。「光はすべてを平等に照らす普遍的愛です!」応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村心理カウンセラーランキング

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    • 本当の愛

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」愛はその為すところのものである・・・「本当の愛」の場合、目的は常に精神的な成長にあります。「本当の愛」でないものの場合、目的は常にそれ以外のところにあります。「本当の愛」とは、無条件です。「本当の愛」とは、感情ではありません。「本当の愛」とは、意志です。「本当の愛」とは、決意です。「本当の愛」とは、仕事です。「本当の愛」とは、相手を常に尊重します。「本当の愛」とは、勇気が必要であり、危険が伴います。「本当の愛」とは、二元性を超越した行為です。「本当の愛」とは、普遍的愛です。「本当の愛」とは、『純粋な意識』です。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村心理カウンセラーランキング

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  • 05Oct
    • 至福

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」誕生したものは死にます。始まりがあるものは終わります。新しく現れたものは消え去ります。この限定された一過性のはかなさを象徴しているのが、生まれてくる赤ちゃんです。赤ちゃんは泣いて生まれてきます。限定されない永遠の至福の世界に誕生したのであれば、赤ちゃんは笑って生まれてくるでしょう。赤ちゃんは生まれてくるときに、この世界のはかなさを知っているのです。生まれてくる前と死んだ後は何も問題がないのに、なぜ私たちは、その中間に、人生という名前を付けて問題をつくり出すのでしょうか?それは「私」という想念とともに自我が現れ、苦痛をともなう快楽を幸福だと誤り、外的状況に幸せを求め始めるからです。しかし、そのような幸福は一時的なものです。なぜなら、苦痛と快楽は表裏一体で、交代し続けるものだからです。私たちは眠りの中で苦痛を感じません。なぜなら、そこには純粋な意識だけが在り、世界は存在しないからです。目覚めとともに「私」という想念が現れ、世界が現れ、執着が現れます。眠りとは一時的な至福であり、死とは永遠の至福です。それゆえ、死を怖れる必要はまったくないのです。なぜなら、私たちは眠りを怖れないからです。なぜ死者について嘆くのでしょうか?彼らは苦しみから解放されたのです。嘆きとは、対象への愛、その形態のみへの愛着であり、残された者の個人的視点です。本当の愛とは、決して消滅することはないという確信です。苦しみを避ける方法とは、苦しむ人を殺すことです。自我が死ねば、苦しむ人がどこにいるというのでしょうか?それが唯一の方法です。「私」という想念を取り去りましょう。「私」が生きている限り苦悩はそこにあります。「私」が消え去るとともに苦悩もなくなります。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村心理カウンセラーランキング

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  • 04Oct
    • 誰?

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」「私は幸せではない!」という思いが、「幸せ」への障害です。実際、私たちは「幸せ」なのです。「幸せ」を求める必要など何もないのです。「幸せ」が何か新しいものであれば、今までなかったものであり、これから起こるということです。しかし、誕生したものは必ず死にます。「幸せ」が永遠のものでないなら、得る価値もないでしょう。「幸せ」とは、新しく起こる何かではなく、永遠なるものです。私たちの本性は至福です。その至福を覆い隠しているのは自我です。至福を解き放つために、エゴを取り除きましょう。世界が「私は世界だ!」と言うでしょうか?身体が「私は身体だ!」と言うでしょうか?神が私たちのもとに来て、「私があなたたちを苦難の中に置いたのだ!」と言うでしょうか?「私は幸せではない!」と言っているのは誰でしょうか?そのように言うのは自我です。自我は「偽の自分」であり、想念、観念に過ぎず、幻影です。それさえ消え去れば、「神がこれやあれを創造したのだ!」と言う人はいなくなります。「本当の自分」とは誰なのか?それを見いだして下さい。そうすれば疑問はすべて消え去るでしょう。自我の源を探求することによって、すべての源が「純粋な意識」であることに気づきます。「純粋な意識」とは、まさに「本当の自分」です。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 03Oct
    • サマーディ

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」「サマーディ」とは、サンスクリット語で「真我の直接体験」を意味します。真我とは、純粋な意識、悟り、解脱、明け渡し、神、愛、本当の自分等と同義語です。真我とは、限定されない無色透明な「普遍的純粋意識」であり、主体と客体を超越したすべての「エネルギー源」です。真我とは、静寂、至福、平和であり、私たち人間の本性です。簡単でシンプルな四つの「真我の直接体験」 自分の身体が火葬されているイメージをして下さい。自分の身体すべてが灰になった後に残った意識が「真我」です。無色透明な「私」と「私」が出会う瞬間、「私」は「純粋な意識」に溶け込み、「すべてはひとつ」になります。 自分の身体が大地に沈み込んでいくイメージをして下さい。自分の身体すべてが大地に沈み込んだ後に残った意識が「真我」です。無色透明な「私」と「私」が出会う瞬間、「私」は「純粋な意識」に溶け込み、「すべてはひとつ」になります。 自分の身体が透明になって消えていくイメージをして下さい。自分の身体すべてが透明になって消えた後に残った意識が「真我」です。無色透明な「私」と「私」が出会う瞬間、「私」は「純粋な意識」に溶け込み、「すべてはひとつ」になります。 今まで外面を知覚していた目(意識)を180度回転させて、内面を知覚するイメージをして下さい。これは、今まで観照していた者が観照されることを意味します。無色透明な「私」と「私」が出会う瞬間、「私」は「純粋な意識」に溶け込み、「すべてはひとつ」になります。 この四つの「サマーディ」(真我の直接体験)は一時的なもので、イメージが止まれば、今までの「潜在的傾向」(ヴァーサナー)に引き戻されます。「真我の実現」とは、自我が根こそぎ消滅されなければなりません。その状態が、サット・チット・アーナンダ(存在‐意識‐至福)であり、まさに「永遠の平和」なのです。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 02Oct
    • 悟り

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」誰も悟りを得ることはできません。「この言葉は何を意味しているのでしょうか?」悟りとは、悟りを「欲しがる人」が消滅することです。悟りを得ることは、コントロールできることではありません。もし悟りを実現したなら、それは純粋な意識の中へ融け込むことであり、その前に悟りを欲しがっていた「人」が消滅したわけです。ですから、「誰も」悟りを達成することはできないし、「誰も」悟りを楽しむことはできないのです。悟りを実現した人の行為はすべて自然発生的です。なぜなら、個人的行為者という感覚がそこにはないからです。悟りとは、身体が死ぬ前に、「私」という自我が死ぬことです。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 01Oct
    • 自我

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」自我とは何でしょうか?・・・自我とは「私」という想念です。「本当の自分」が純粋な意識だとすれば、自我とは「偽の自分」です。「偽の自分」は、純粋な意識にヴェールをかけ、二元性の世界を生みます。自我とは、大地に映る影です。自我とは、大海に浮かぶ水泡です。自我とは、身体と純粋な意識の間に介在する幽霊です。自我とは、それ自体の場をもっていない揺れ動く幻です。大地に映る影を見るのではなく、光を見ましょう。大海に浮かぶ水泡は、海に溶け去る大海の一部分です。映画のスクリーンに投影されたあらゆる画像が目に見えるのは、光源から放射された光によってです。同様に、身体やその他のあらゆる物体が目に見えるようになるのは、純粋な意識の光によってです。純粋な意識は光を放射し、自我として顕現し、身体と宇宙として拡張していきます。自我と「本当の自分」を同一視するのはやめましょう。なぜなら、自我がすべての病気の根源だからです。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 30Sep
    • 感謝

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」「ありがとう!」と考える時、それは心体に影響を与えます。何かに悩んでいる時には、自分が今もっている良いものを眺め、それに対して感謝しましょう。感謝は、エゴを止滅させます。感謝は、多くを与えます。感謝は、エネルギーを変えます。感謝は、ハートを開きます。感謝は、オーラを浄化します。感謝は、波動を上げます。「感謝は感情を癒します!」応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 29Sep
    • 言葉

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」言葉とは、コミュニケーションのための媒体です。そして、「私」という想念がすべての会話の根源です。どんな言葉もそれを描写することはできません。なぜなら、言葉は現象の中にあるからです。それゆえ、それに名前を付ければ、それはそれそのものではなくなります。何を言うかではなく、何をするかが重要なのです。言葉によって指し示す者ではなく、指し示すそのものになることです。すべての正しい言葉を知り、聖典を引用し、討論において優秀であっても、それはただの薄っぺらな人間のままなのです。「言葉とはどのようにして生ずるのでしょうか?」それは口という器官を必要とし、それが言葉に先行します。そこには非顕現の抽象的知識があり、エゴがそこから言語を引き起こします。そして、言葉によって強制的に人を支配しようとすればするほど、エゴは増殖します。言葉が事実をつくり出すことはありません。事実は常に言葉を必要としません。言葉とは、知識、名前、形にすぎず、実在はその彼方に在ります。言葉は沈黙の子供です。もし言語がある効果を持つとすれば、その親である沈黙は普遍的効果を発揮します。議論のために言葉を脚色し、それらに意味を与え、有名な講演者であり、偏狭さと論争好きな勢力旺盛な討論者・・・「そのような人々に答える最大の武器は沈黙です!」なぜなら、知識は無知から来たもので、最も精密な地図も、ただの紙だからです。それはただの認識なのです。一方、実在とは、二元性の彼方に在るものです。在るために実在が知られる必要はありません。無知と知識は実在ではなく、心の中の想念にすぎません。沈黙とは、話さないことではなく、心の静寂さです。沈黙とは、思考の欠如です。言葉は思考を使って問題を生み出します。なぜなら、考えることは人間の本性ではないからです。考えることは概念化を意味し、あるがままの現実から私たちを遠ざけます。思考が欠如している時、沈黙という普遍的言語によって、他人を理解することができます。沈黙は永遠の語りであり、それは絶え間のないものであり、言葉がそれを中断させます。沈黙とは、真理の啓示であり、実に強力なものです。最も大きく、最も効力のある力は、目に見えないものです。「純粋な意識は言葉を超えています!」応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 28Sep
    • スクリーン

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」映画のスクリーン上の映像は、来ては去っていき、現れては消えていきます。映像を掴み取ろうとして近づいても、手に触れるものはスクリーンだけです。スクリーン上には、海を見る時もあれば、炎を見る時もあります。「スクリーンは水によって濡れたでしょうか?」「スクリーンは火によって燃えたでしょうか?」映像は、スクリーンに影響を与えることはできません。同様に、心が純粋な意識に影響を与えることはできません。「純粋な意識」とは「スクリーン」です。「心」とはスクリーン上の「映像」です。スクリーンは実在であり、映像はその上の単なる影に過ぎません。実在とは、常にそこに在るものです。非実在とは、来ては去っていき、現れては消えていくものです。それゆえ、純粋な意識だけが唯一の実在であります。心、自我、想念などは、純粋な意識の幻影です。あなたが純粋な意識にとどまるならば、あなたを傷つけるものは何もありません。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 27Sep
    • 眠り

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」深い眠りの間には悩みがありませんが、目覚めている間には悩みがあります。「なぜ深い眠りの間には悩みがないのでしょうか?」それは、深い眠りの中では世界が知覚されないからです。つまり、眠っている人にとって世界は存在しないのです。目覚めとともに自我が現れます。したがって、世界はエゴの産物です。私たち人間の不幸の原因は、ただ単に自我の出現にのみあります。なぜなら、自我が現れる前、深い眠りから目覚めた瞬間、誰もが「あ~よく眠った!」と言うからです。これは、自我が現れる前は幸せだったことを証明しています。目覚めとともに自我が現れ、それと同時に「私は身体だ!」という想念も現れます。そして、「私は身体だ!」という誤った限定が、私たち人間を束縛します。しかし、深い眠りの中では、身体に関わらずにいました。ですから、いつもそのようにあることはできるのです。つまり、深い眠りの中には限定がないのに対して、目覚めの状態には限定があるということです。「私は身体だ!」という誤った知識が、すべての不幸の原因です。この偽りの「私」が消え去らなければなりません。真の「私」は常に存在しています。新たに現れることもなければ、再び消え去ることもありません。新たに現れたものは、再び失われるでしょう。それは、深い眠りと目覚めを比較してみればわかります。身体は目覚めの状態の中に現れますが、眠りの状態の中には現れません。始まりがあるものは、終わりがあります。それゆえ、身体は失われるものなのです。「純粋な意識」は、身体よりも前に存在し、身体が失われてもあり続けます。それゆえ、眠りの中の「私」は、真の「私」なのです。それは、目覚め、眠りの状態を通して常に存在しています。常に存在し続けるものが実在であり永遠の至福です。来ては去って行くものは非実在であり幻想なのです。「純粋な意識」とは、何か新しいものを獲得することでも、新しい能力を手に入れることでもありません。それは、ただ単に、誤った知識を棄て去ることなのです。究極の真理はとてもシンプルです。それは純真無垢な状態の中に在ることです。それは、自我、想念、知識を超えたものです。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 26Sep
    • 行為

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」人生における困難は、自分を行為者だと考えることです。なぜなら、その考えが消え去らない限り、人間は行為に束縛されるからです。生命は、常に高次の力に操られています。すべてを為すのは高次の力であり、生命は単なる道具に過ぎません。その力に抵抗することは、行為に束縛されていることを意味します。それよりも、その力を認めて、自分自身を道具として差し出しましょう。もしも拒めば、強制的にそれをさせられることになるでしょう。不本意に行為するよりも、進んで行為する人になりましょう。行為者という感覚なしに自然に行為をすれば、行為の結果があなたに影響することはありません。「私は行為者だ!」という想念を棄て去って、身体と感覚にその役割を果たさせましょう。自我がいる時、それは束縛です。自我がそこにいない時、それは解放です。行為者という個人的感覚が消える時、その時、実際上エゴは消えたのです。肉体との一体化は続きますが、個人的行為者としての一体化は消えるのです。人生における不幸の原因は、自我の出現にのみあります。自我をたどってその源まで戻れば、区別も分離もない「純粋な意識」に達するでしょう。「静寂、至福、平和」は、常に変わらず今ここに在ります。それ以上得るものなど何もありません。「海は波に気づいていません。同様に、純粋な意識は自我に気づいていません。」・・・この言葉は、自我の源の探求こそが、解決法であることを明らかにしています。「水滴が海に溶け入ることは誰もが知っていますが、海が水滴に溶け入ることは誰も知りません。」・・・私たち人間の幸福も同様に、何も新たに得るものなどありません。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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  • 25Sep
    • 二元性

      「いつも覗いて下さる方々、感謝します」二元性が現象世界のまさに核となります。「生・死」「楽・苦」「善・悪」等々・・・片方はもう片方なくして存在しえません。善について話す瞬間、悪が既にそこにあります。私たち人間は、片方だけを経験したいと思い、もう片方は経験したくないと考えます。その思考が問題を生じさせます。なぜなら、それはかなわないことだからです。この世の中は諸行無常です。不安定が人生の基本です。生と死は相互関連している単なる出来事です。死とは、呼吸が止まり、脳の働きが止まり、肉体の中に詰まっていた意識が解放され、自由な「純粋な意識」で在ることです。それゆえ、自由とは、すべてを手放すことを意味します。しかし、私たち人間には、手放したくないという恐れがあります。なぜなら、死が不死の代価だということを知らないからです。真の放棄とは、放棄するものは何もないと悟ることです。すべてを手放すということは、すべてを得るということです。「あなたは、深い眠りに落ちる時、恐怖を感じるでしょうか?」・・・答えは「いいえ!」です。あなたが眠りの間に感じるのは、静寂、至福、平和です。応援クリック、ぽちっとお願いしますにほんブログ村

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プロフィール

熊山達也

性別:
男性
お住まいの地域:
神奈川県
自己紹介:
はじめまして。 カウンセラーの熊山達也です。 経歴・・・ 大手外食チェーンにて店長、マネージ...

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