純粋な意識
  • 29May
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      意識と思考の話 28

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキング28 「運命」思考人生は神の意志にもとづいていて、私がコントロールできることではないのなら、私はやりたいことをやります。意識それが神の意志です。あなたは犯罪をしたいと思いますか?思考いいえ、犯罪は私がやりたいことではありません。意識まさにそれが神の意志なのです。人生は神の意志だからといって、あなたが「この行為は神の意志である」といって何でもできるわけではないのです。なぜなら、それが神の意志であり、あなたの運命だからです。思考私の運命とは何ですか?意識一つひとつの身体に関する神の意志が、その身体の運命と呼ぶものであり、それは受胎の瞬間に刻印されるものです。もしある受胎が赤ちゃんとして生まれると運命づけられていなければ、その妊娠は続かないでしょう。赤ちゃんが生まれると運命づけられていても、その身体がどれほど生きるかは運命の一部であり、その一生の間に何が起こるかも運命の一部、つまり、神の意志ということです。誰も、自分がどうやって死ぬのかを知ることはできません。それは自然な死かもしれません、事故かもしれません、殺人かもしれません、自殺かもしれません。ですから、これらの四つの死に方のうち、どれにあてはまるかは、その身体の運命であり、受胎の瞬間に刻印されているのです。もしある身体の運命が殺されるというものなら、その身体は殺されることになるでしょう。そして殺人を犯した身体に起こる罰もまた、その身体の運命ですが、すべての犯罪が見つかるわけではありませんし、罪を犯していないのに罰せられる身体もあるでしょう。それはその身体の運命であり、神の意志なのです。マザー・テレサと呼ばれた身体があり、それは素晴らしいことだけが起こるようにプログラムされました。それはその身体の運命だったのです。一方、精神を病んでいる身体もあります。サイコパスは、社会と法律が悪い行為、倒錯的行為と呼ぶことをするようにプログラムされました。それはその身体の運命なのです。ここでの要点は、それがマザー・テレサという身体であれ、サイコパスの身体であれ、どちらも同じ源泉から生み出されたということです。あなたは神の意志を受け入れることしかできません。なぜなら、あなたは神の意志を理解できないからです。なぜあなたには理解できないのでしょうか? その理由とは、身体は神がそれ自体を感じるために現象化した現象的対象物のひとつであり、全体性機能の一部だからです。単に源泉の反映である現象全体のわずかな部分にしかすぎない限定された身体が、どうやって永遠の神の意志を理解できるというのでしょうか? あなたにできることはただ、ものごとをあるがままに受け入れることだけです。それを受容と呼ぼうが、明け渡しと呼ぼうが違いはありません。神という観点で考えることが好きな人は、明け渡しという言葉を好みます。また、より知的でエネルギーとか源泉という言葉を好む人たちは、受容と言うでしょう。どちらも同じことです。で、受容と明け渡しとは何でしょうか? 受容と明け渡しの最終結論は何でしょうか? それは、何かをすることができるどんな「私」も、本当は存在しないということです。起きる行為は運命です。そして、その行為の結果もまた運命です。それがその身体の運命なのです。つづく人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

  • 28May
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      ヨーガ・ヴァーシシュタ 第5章「崩壊についての教え」153・154

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキングラーマは言った。賢者よ。あなたは自我と、自我が生み出す欲望を放棄するよう私に示されました。もし自我を放棄するなら、間違いなく私は、身体やこの自我を基盤としたものすべてを放棄しなければなりません。なぜなら、身体と生命力は自我を支えとしているからです。根元(自我)が断ち切られれば、木(身体)は倒れるでしょう。いったいどうして自我を放棄して、しかも生き続けることが可能なのでしょうか?ヴァシシュタは語り続けた。解脱した人の欲望は渇望ではなく、(食事や排泄などの)自然な生活機能の中で起こるものだ。外的対象物への渇望に縛られた欲望は束縛へと導く。対象物の影響を受けず、意図なく自然に起こる欲望は解放となる。対象物と接触する前から存在する欲望は、今も、これからも永久に存在する。それは自然な欲望で、悲しみや不幸をもたらさず、不純性から自由だ。賢者はそのような欲望を「束縛から自由な欲望」と見なしている。束縛へと導く欲望を放棄しなさい。解脱への願望も放棄しなさい。「真我は老いや死から自由だ」ということを理解して、惑わされずにいなさい。非二元性の理解を支えとしなさい。真理は非二元なのだ。だが、行為は二元性を必然的にともなう。それゆえ、あなたは二元的な現れの中で働く。そのように、あなたの本性が二元性と非二元性の両方を帯びることを受け入れなさい。区別を生み出すのは心であって、実在は二元でも一元でもない。なぜなら、一元性という観念は二元性という観念に対立させることで生まれるからだ。このような観念が止めば、無限の意識だけが唯一の実在であることが認識される。ラーマよ。あらゆる限定を拭い去り、無限の視野をもってこの世で生きなさい。内面ではすべての希望と欲望から自由でありなさい。それでも、外面では為すべきことを為し遂げなさい。すべての事柄を調べ、限定も限界もないものだけを求めなさい。そして、絶え間なく「無限なるもの」に黙想しながら、この世で生きていきなさい。ハートの中では期待や希望を抱かず、外側ではあたかも希望にあふれているかのように生きなさい。ハートは静かで落ち着いていても、外側では他の人々と変わらないように振る舞いなさい。内面では「私は行為者だ」という観念を完全に棄て去りなさい。それでも、外面ではあらゆる活動に従事しなさい。ラーマよ。このように、わずかな自我の痕跡も残さず、完全に自由に生きていきなさい。人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

  • 27May
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      意識と思考の話 27

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキング27 「聖なるジョーク」思考人間関係が起こるために神が聖なる催眠を通じて二元性を創造し、また二元性の消滅も神が聖なる催眠を通じて行うということは・・・人間関係が起こるためにはエゴというものがなければなりませんが、そのエゴが自分の消滅を望むということですか? つまり、私が私の消滅を望むのですか?意識はい、なぜなら、二元性は幻想であり、本当に存在しているのは、身体とその中を流れるエネルギーだけだからです。すなわち、すべては神の遊び・・・聖なるジョークなのです。思考はぁ~聖なるジョーク???意識すべての現象は源泉の中の夢です。ちょうど鏡に映った対象物が単なる見かけで、鏡自体は鏡に映った対象物には影響されないように、身体は純粋な意識の見かけにすぎず、それ自身で独立した意志をもちません。純粋な意識は、現象化した対象物には決して影響されないのです。思考そもそも私は存在しないということですか?意識聖なるジョークとは、あなたの存在は、あなたがコントロールできることではないということです。なぜなら、「私」という個人がいる限り、それはエゴであり幻想だからです。思考では、そのジョークを私はどのように解釈すればいいのですか?意識その解釈とは、「行為は起こりますが、それについてのどんな行為者もいません。行為は神の意志ゆえに起こります」という突如生じる理解です。それが神の意志なら、それ以外はどうでもいいことです。思考つまり、すべてを神に明け渡すということも、私がコントロールできることではないということですか?意識はい、人生とは人間から見れば論理的なものではありません。なぜなら、人生は神の意志にもとづいていて、あなたがそれを理解することは不可能だからです。それゆえ、仏陀は言ったのです・・・「サムサーラ(世俗)は苦しみであり、ニルバーナ(涅槃)は平和である。しかし、この二つは別のものではない」と。つづく人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

  • 26May
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      ヨーガ・ヴァーシシュタ 第5章「崩壊についての教え」151・152

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキングヴァシシュタは語り続けた。心には生命力がなく、実体もない。だとすれば、それは死んでいるも同然だ! にもかかわらず、この世の生き物はこの死者に殺されている。何と不可解な、何と愚かなことか! 心には自己がなく、身体もなく、支えもなく、姿もない。それなのに、この世のすべてのものがこの心に食い尽くされてしまう。何と奇妙なことか! 実態を持たない心に殺されたと言う人は、蓮華の花びらで頭を砕かれたと言うのと変わらない。自ら動けず、言葉も発せず、知覚することもできない心に傷つけられたと言う人は、満月の熱で焼かれたと言うのと変わらない。にもかかわらず、目の前の敵を打ち倒す英雄でさえ、探究をすれば存在を消し去るこの心に破壊させられてしまう。愚かさと無知がこの世のすべての苦しみの原因に他ならない。にもかかわらず、この実在ではない心を人々がもっと強化したいと望んでいるとは、不思議としか言いようがない。それゆえ、ラーマよ。思考や観念化を手放すことで欲望を棄て去りなさい。思考や観念化がなければ、心が存在することはできない。まず第一に、「私」「あなた」「これ」というイメージを心の中に起こしてはならない。なぜなら、これらのイメージがあるために期待や希望が生まれるからだ。「私」「あなた」「これ」というイメージを構築することをやめれば、あなたも賢者となる。欲望が自我なのだ。自我はすべての罪の源だ。この自我の根元を、無我という叡知の刀で断ち切りなさい。そして、恐れから自由になりなさい。人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

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      意識と思考の話 26

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキング26 「基本原理」思考本当に二元性から自由になれるのでしょうか?意識そもそも二元性は幻想であり、本当に存在しているのは、身体とその中を流れるエネルギーだけです。それが基本原理です。思考基本原理とは何ですか?意識基本原理とは、電気器具に電気が流れるのとまったく同じことです。もし、電気器具が催眠術にかけられているとしたら、次のように言うでしょう・・・「私が料理をしているんだよ!」「私が洗濯をしているんだよ!」「私が掃除をしているんだよ!」と。しかし、基本的には、電気器具とその中を流れるエネルギーだけです。エネルギーとは神であり、純粋な意識です。そして電気器具とは身体です。思考身体は単なる道具で、純粋な意識によって生かされているということですね。意識はい、その基本原理を完全に理解することが、二元性からの自由であり、目覚めと呼ばれているものです。思考基本原理を完全に理解するにはどうすればいいのですか?意識二元性は聖なる催眠を通じて生まれた感覚ですので、二元性の消滅を行うのも聖なる催眠です。それゆえ、神が二元性を創造し、神が二元性を消滅させるわけです。思考もう少し具体的に説明してもらえますか?意識はい、二元性からの自由とは、あなたがそれ自身で独立した意志をもたないという真実を受け入れることです。つまり、あなたがあなたを消滅させるのです。つづく人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

  • 25May
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      ヨーガ・ヴァーシシュタ 第5章「崩壊についての教え」149

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキングヴァシシュタは語り続けた。あなたはすべてを知る真我、不生の存在、至高の神なのだ。あなたはすべてに遍在する真我に他ならない。「真我以外に知覚の対象物が存在する」という観念を放棄した人は、喜びと悲しみから生まれる問題に左右されない。魅惑と嫌悪の両方から解放された人、「世界の現れは実在だ」という確信を放棄した人が真のヨーギーだ。彼にとっては土塊も金塊も同じなのだ。何をしようと、何を楽しもうと、何を与えようと、何を破壊しようと、彼の意識は自由だ。それゆえ、苦痛に対しても快楽に対しても常に平静でいる。どんな行為をしようと、それを好むことも嫌がることもない。彼はただ巻き込まれずに為すべきことを為すだけだ。「ただ無限の意識だけが存在する」という確信を抱く人は、快楽という観念から自由だ。それゆえ、彼は常に落ち着き、自己制御されている。人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

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      意識と思考の話 25

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキング25 「感謝」思考あなたが教えてくれたことを私はすぐ忘れてしまいます。それも聖なる催眠でしょうか?意識はい、その「私」が消滅するまでは、私のことを忘れ続けるでしょう。思考申し訳ございません。意識私はあなたのことを責めているわけではありません。自分を責めるのはやめましょう。「私」という重荷を手放しましょう。責任はすべて神の肩の上にあります。なぜなら、神の意志でない限り、何も起こらないからです。思考ありがとうございます・・・感謝します。意識感謝はあなたを浄化し、ハートを開き、感情を癒します。思考なぜ、感謝は感情を癒すのでしょうか?意識感謝は、反対語や他の言葉に置き換えるのが非常に困難だとわかる数少ない単語のひとつです。それは二元性からの自由を意味します。二元性からの自由とは、エゴからの自由であり、エゴからの自由とは、まさに癒しです。つまり、二元性からの自由が感情を癒すのです。つづく人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

  • 24May
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      ヨーガ・ヴァーシシュタ 第5章「崩壊についての教え」148

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキングヴァシシュタは語り続けた。ラーマよ。ものを得ようとする欲望と、望ましくないものを避けようとする苦悩以外に束縛というものはない。望ましくないものを避けようとすることと、欲しいものを得ようとすることを、あなたの目標としてはならない。その両方の態度を棄て去ったあとに残るものの中に安らぎなさい。獲得と拒絶という二つの衝動が止んだ人は、何も望まず、何も放棄しない。この二つの衝動が消去されないかぎり、心が完全な静寂に達することはない。心によって心を断ち切りなさい。そして、心を否定したその想念もまた棄て去りなさい。そうすれば、あなたは世界の現れを消し去ることができる。世界の現れが消滅すれば、無明がふたたび現れることも、心がふたたび世界を創造することもなくなるのだ。世界の中で働きながら、その現れの非実在性に完全に気づいていることで、すべての期待と希望を手放しなさい。純粋な境地に達したなら、即座にその中に確立されなさい。冷静に、落ち着いて、与えられた状況の中で適切に行為し、求めずして得たものについて思いを馳せることさえせず、計らいのない人生を生きなさい。神でさえすべての行為の行為者でありながら、行為者ではないのだ。あなたもまた、為すべきことを為しながら、しかも何も為さないという計らいのない人生を生きなさい。人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

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      意識と思考の話 24

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキング思考なぜ、私は身体との自己同一化で人生を混乱させるのでしょうか? 神はなぜ、私にエゴを与えたのでしょうか?意識それは聖なる催眠です。思考聖なる催眠とは何ですか?意識すべては、神がそれ自体を見たいという意志から始まりました。それが現象の始まりであり、聖なる催眠の源泉です。現象世界の基本は二元性です。現象の機能は、生死、善悪、男女など、反対のものが相互関連して存在しているということにもとづいています。そして、人生の基本は人間相互の関係です。人間関係は、好嫌、愛憎、敵味方など、エゴが相互関連する正反対のものから片方を選択して、エゴ同士の関わり合いが存在するときに起こります。それゆえ、神は聖なる催眠を通じてエゴを創造したのです。思考聖なる催眠とはエゴであり、エゴは神が創造したのですね。意識はい、人間関係が起こるためには、エゴがなければなりません。エゴとは、「私は身体であり、それ自身で独立した意志をもつ個人的行為者である」という聖なる催眠によって生まれた感覚です。思考ということは・・・人生とはエゴなのでしょうか?意識神は人生という聖なるシネマを上映するために、エゴという脚本を創造したのでしょう・・・何であれ、エゴは聖なる催眠であり幻想です。つづく人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

  • 22May
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      ヨーガ・ヴァーシシュタ 第5章「崩壊についての教え」141・142

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキングヴァシシュタは語り続けた。ラーマよ。水晶が意図せずに周囲の物を映し出すように、すべての行為はただ意識が存在するがゆえに自然に起こるということを知っている人は解放されている。見る者が見られる対象を区別や概念化なしに見るとき、自らを純粋な至福の体験として現す真我に、私たちは瞑想する。主体と対象に分かれた体験を生み出そうとする意図や意欲が止んだとき、意図せずに対象を映し出す真我に、私たちは瞑想する。その中にすべてが存在し、すべてがそれに属し、すべてがそれから現れ、すべての原因であり、まさにすべてである実在、私たちはその実在に瞑想する。人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

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      意識と思考の話 22・23

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキング22 「癒し」思考私の死は聖なるシネマの登場人物の死にすぎないということを理解しましたが・・・まだ死に対する私のストーリーは恐ろしくて暗いものです。意識その知的理解があなたの限界です。思考では、死に対する私の恐怖心を払拭することはできないのですね。意識いいえ、できます。思考今、限界だって言ったじゃないですか?意識はい、知的理解があなたの限界ですので、それを超えればいいのです。思考はぁ~?・・・私の限界を超える方法を私は知りません。なぜなら、私の限界だからです。意識それが限界を超える方法です。思考私はわかりませんと言ったのです。意識その「わかりません」が限界を超える方法です。知らないということを知るとき、あなたは限界を超えて癒されるのです。なぜなら、あなたが理解したことを頭で証明しようとすることは、犬が自分の尻尾を追いかけているようなものだからです。思考何もわからなくていいのですか?意識はい、知的理解の後、次に何が起こるのか何もわからないという真実を受け入れることによって、死に対するあなたの恐怖心は払拭されます。それが癒しと呼ばれているものです。概念を手放せばあなたは不要です。なぜなら、現実が起こることを教えてくれるからです。23 「混乱」意識概念を手放すということは、あなたの消滅を意味します。思考それは、私の消滅が癒しをもたらすという意味ですか?意識はい、あなたが生きながら死ぬとき・・・すなわち非個人的に生かされる行為に任せるとき、ストレスを感じることなく、私と共に流れます。思考それは、私がストレスをもたらすという意味ですか?意識まさにその通りです。人が生かされる行為に難しい行為はありませんが、それを難しくしているのは、行為に対するあなたです。思考行為に対する私が人生を難しくしているのですか?意識はい、あなたが現実に抗うとき、難しくない行為が難しくなるのです。つまり、行為が個人的行為者であるとき、ストレスを感じるのです。思考私は自分でストレスをつくって、そのストレスで混乱しているのですね。意識現実はいつもあなたにとってベストな状態であり、あなたより思いやりがあります。なぜなら、現実があなたの使命だからです。それゆえ、平和とは今この瞬間に没頭することであり、混乱とは今この瞬間に考えることです。平和とは今この瞬間の行為をすることであり、混乱とは今この瞬間に「なぜ?」と問うことです。つづく人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

  • 20May
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      ヨーガ・ヴァーシシュタ 第5章「崩壊についての教え」140

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキングヴァシシュタは語り続けた。身体との自己同一視をやめなさい。そうすれば、あなたは一瞬にして平和になるだろう。たとえ泥の中に落ちようと、金塊が泥に汚されることのないように、真我が身体に穢されることはない。今一度、私はこの手を挙げて宣言しよう。水と蓮華のように、真我と身体はまったくの別のものなのだ。だが、誰も私の言葉に耳を傾けようとはしない。心が快楽を追い求めているかぎり、世界という幻想の無知の暗闇を一掃することはできない。だが、ひとたび目を覚まし、真我の本性を探究すれば、この暗闇は即座に消え去る。それゆえ、人が「何かに成る」という過程を超えていくためには、身体に宿る心を覚醒させる絶え間ない努力が必要だ。なぜなら、「何かに成る」ことは不幸に満ちているからだ。人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

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      意識と思考の話 20・21

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキング20 「恋人」思考この身体が滅びるまで、私はあなたと付き合うことになるということは・・・私たちは運命的な出会いですか?意識そうかもしれませんね(笑)思考もしかして恋人みたいな関係ですか?意識そうかもしれませんね(笑)・・・あなたがすべてを私に委ねるとき、私たちは共に人生という聖なるシネマを観照します。思考それは恋人と一緒に映画を見ているような感じですか?意識そうかもしれませんね(笑)・・・そしてあなたは、その映画の登場人物でもあります。自分が演じている役を見ることは、とてもエキサイティングな経験です。思考そんな感じで人生を経験できたらいいな~!意識では、そんな感じで人生を経験しましょう。思考えっ、どうやって?意識簡単です。あなたは毎日、目覚める瞬間に感じる何ものでもない私に留まるだけでいいのです。あなたのストーリーである欲望の世界へ逃げずに、ただ私であるだけでいいのです。思考それだけ?意識ポップコーンとコーラを忘れずに。あとは私が連れて行きます・・・「ようこそ聖なるシネマへ!」21 「ラストシーン」思考暗い質問ですが・・・私が死んだら聖なるシネマはどうなりますか?意識その質問のどこが暗いのですか?思考私の死です。意識それは死に対するあなたのストーリーが暗いだけで、質問が暗いわけではありません。そもそも私は死にませんし、生まれてもいません。なぜなら、私は永遠不変の絶対的主体性だからです。思考あなたではなく、私の死について質問しているのです。意識あなたは「私」ではなく私の現象化である身体です。そして、身体の死が聖なるシネマのラストシーン・・・つまり人生の終わりです。死とは、受胎の瞬間に刻印された役割が終了したことを意味します。人間は何千年も生死という聖なるシネマを繰り返しています。ですから、「私は誰か?」と自問することによって、あなたは真実に出会うのです。思考すべてはあなたの現象化であるという真実を忘れていました。死とは、聖なるシネマのラストシーンであり、与えられた役を演じ切った登場人物の死にすぎないのですね。つづく人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

  • 19May
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      ヨーガ・ヴァーシシュタ 第4章「存在についての教え」136

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキングカチャの詩何をすればいいのか?どこへ行けばいいのか?何を獲得し、何を棄て去るべきなのか?全宇宙は真我に満ちている。幸福も真我なら、不幸も真我だ。すべての欲望は虚空に他ならない。すべてが真我だと知って、私は苦しみから自由になった。この身体も、内も外も、上も下も、ここもあそこも、ただ真我だけが遍く存在し、真我でないものは何もない。ただ真我だけが遍く存在し、すべてが真我として存在している。このすべてが真我なのだ。私は真我の中に真我として存在している。私はこのすべてとして、すべての中の実在として、いたる所に遍く存在している。私は完全だ。私は真我の至福だ。私は海のように遍く全宇宙に満ち満ちている。人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

  • 18May
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      意識と思考の話 19

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキング19 「幸せな人」思考あなたと話していると、私が消えていくような気がして・・・なんだか恐ろしいです。意識それはエゴが恐れているのです。なぜなら、「私」の消滅は、エゴの死を意味するからです。それゆえ、エゴは必死で抵抗します。思考私はどうすればいいのですか?意識その「私」に執着しないで消え去らせましょう。なぜなら、エゴは幻想だからです。あなたは私であることが真実なのです。思考でも、私がいなくなったら、何も感じなくなりませんか?意識いいえ、いなくなるのは「私」という個人だけです。思考どういう意味ですか?意識例えば、自然に沸き起こる苦しみはありますが、その苦しみを抱えて苦しむ個人はいないということです。思考楽しみも感じますか?意識はい、楽しみが来たらそれを楽しみます。そして、それが去るときは、それを追い求めません。なぜなら、追い求める個人がいないからです。思考では、幸福と不幸も感じますか?意識幸福と不幸はエゴの産物です。それゆえ、幸福と不幸は幻想です。影が実際には存在しないように・・・あなたが我が家へ帰るとき、幸福と不幸は消え去り、ただ私であることが至福であります。思考それは、ただ生きていることが幸せという意味ですか?意識まさにその通りです。幸せとは、とてもシンプルなものです。「貧しい人は幸いです」という聖書の言葉がありますが、この貧しい人とは、エゴの弱い人を意味します。つまり、エゴの弱い人は幸せな人なのです。思考私のエゴは完全に消滅するのでしょうか?意識エゴが完全に消滅することはないでしょう。なぜなら、聖者や覚者と呼ばれている人たちも、名前を呼ばれたら振り向くからです。この二元性の世界で身体が生かされている間は、私はあなたと付き合うことになります。つづく人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

  • 15May
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      ヨーガ・ヴァーシシュタ 第4章「存在についての教え」135

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキングヴァシシュタは言った。束縛とは想念や観念による束縛であり、自由とはそれらからの自由を意味する。解脱という観念も含めたすべての観念を放棄しなさい。すべての欲望を棄て去り、すべてに遍在する意識の本質について黙想しなさい。これでさえ観念化や想念の領域内にあるのだ。それゆえ、いずれはこれも棄て去ることになる。このすべてが棄て去られたあとに残るものの中に安らぐがいい。それから、これらの観念を放棄した放棄者をも放棄しなさい。自我が静まったとき、あなたは無限の空間のようになるだろう。活動的な人生を送ろうと、常に瞑想の内に安らいでいようと、ハートからすべてを放棄した人は、まさに至高の神なのだ。彼にとっては行為も無為も無用だ。ラーマよ。私はあらゆる聖典を研究し、真理について調べてきた。だからこそ言う。観念、概念、精神的条件づけのすべてを完全に放棄しないかぎり、解脱はあり得ないのだ。人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

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      意識と思考の話 17・18

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキング17 「行為」思考私の行為が、神の意志による行為であることを体験するにはどうすればいいのですか?意識素晴らしい質問ですね! なぜなら、個人的行為者は存在しないという理論は、あなたがそれを体験することによって真実になるからです。思考具体的に教えてください。意識エゴによる行為の分析です。思考私が何かをしているときに、自分の行為をエゴに分析させるのですか?意識あなたにそれはできません。あなたが何かをするときは、まるで自分の意志があるかのようにそれをやります。行為の瞬間には、まるで自分が自由意志をもっているかのように、あなたは決断します。思考では、どうやって自分の行為を分析するのですか?意識そこが肝心なところです! 一日の終わりに自分の行為を分析します。一日の終わりに、自分のいくつかの行為をエゴに分析させ、誰の行為か見出させてください。それらは、あなたの行為でしたか? それとも、ただ起こっただけですか?思考私の行為なのか、それとも、ただ起こっただけなのか、自分自身の経験から見出すのですね。意識その通りです。そして、一日の終わりごとに自分の行為を分析するにつれ、行為が起こっている瞬間に、それらがただ起こっていることを観照しているあなたに気づくでしょう。なぜなら、あなたは私に生かされているからです。18 「本当の私」思考この身体は、あなたに生かされているのですか?意識はい! 本当のあなたとは、私であることです。思考本当の私とは、あなたであることとはどういうことですか?意識私であることとは、今この瞬間を感じることです。今この瞬間を感じることとは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚それ自体であることです。五感それ自体であることとは、頭で考えずにハートで感じることです。頭で考えずにハートで感じることとは、感じることを解釈しないことです。感じることを解釈しないこととは、コントロールしようとしないことです。つまり、現在の自然な行為に没頭することです。現在の自然な行為に没頭することとは、非個人的な私に留まることです。非個人的な私に留まることとは、感じることをただ単に目撃して観照することです。感じることをただ単に目撃して観照することとは、真実を受け入れることです。真実を受け入れることとは、愛であり、自由であり、平和であることです。思考本当の私とは、愛であり、自由であり、平和なのですね。意識平和とは、あるがままの現実を受け入れることであり、あるがままの現実に抗うことが混乱です。個人の意志をもたないとき、あなたは私と共に流れます。そして、その流れは神の恩寵であり、あなたのために決定されます。それゆえ、現実はいつもあなたにとってベストな状態なのです。つづく人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

  • 14May
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      ヨーガ・ヴァーシシュタ 第4章「存在についての教え」134

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキングすべての観念が止んだとき、そこには大いなる平和と静寂がある。そして、悲しみは根源から一掃される。この宇宙の中にあるすべてのものは、単なる観念でしかない。それには、心、魂、ジーヴァ、知性、条件づけといった異なった名前がつけられている。だが、これらの言葉に相応する実体が、実際に存在するわけではないのだ。それゆえ、すべての想念を取り除きなさい。その他の修練を試みることで、人生を無駄にしてはならない。ヴァシシュタは語り続けた。「あなたはあなたで在るもの」なのだ。それを知って、この世を楽しみなさい。あなたには次の二つのような態度をとることができる。⑴私はすべてに遍く存在し、どんな行為もしない。⑵私は世界で起こるすべての行為の行為者だ。そのどちらを選ぼうと、あなたは不生不滅の、完全なる静寂の境地に至るだろう。そして、好感と反感の両方から自由になり、「誰かが私を助けた」や「誰かが私を傷つけた」といった愚かな感情も消え去るだろう。人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

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      意識と思考の話 15・16

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキング15 「コントロール」思考確かに、私は次に何が起こるかわかりません・・・私は何もコントロールできないのですか?意識いいえ、最初の自然な反応に対する二次的反応はコントロール可能です。つまり、出来事に対する自然な反応はコントロールできませんが、その反応に対する個人の考えはコントロールできるということです。個人の考えとはエゴです。このエゴが最初の反応に巻き込まれるあなたであり悩みの原因ですが、あなたはエゴに巻き込まれることを避けることもできるのです。思考エゴに巻き込まれないためにはどうすればいいのでしょうか?意識例えば・・・自然に沸き起こる怒りの感情はコントロールできません。そして、その本質は、今この瞬間に怒りがあるという経験です。このコントロールできない怒りに対して、「なぜ怒ったのか? 怒るべきではなかった? どうやって取り除こうか? どう復讐しようか?」と考えることが巻き込まれるあなたです。それゆえ、巻き込まれないためには、怒りに抵抗するのではなく、怒りが沸き起こった瞬間、その怒りを頭で考えずにハート(体)で感じることです。もしエゴに巻き込まれたら、巻き込まれる考えをハートで感じてください。そうすることによって、エゴは自然に消滅します。ハートで感じるとは、エゴと戦わずに、エゴを受け入れることを意味します。思考頭で考えずに、ハートで感じるのですね。意識あなたがコントロールという幻想を捨てたとき、あなたは気分をコントロールします。なぜなら、神の意志でない限り何も起こらないからです。16 「修行」思考コントロールという幻想を捨てるためにはどうすればいいのでしょうか?・・・私には修行が必要だと思います。意識エゴに巻き込まれないための修行ですか?思考はい、そうです。意識まず、「自分は独立した意志をもつ個人ではない」という真実を知性で理解することです。それから、個人的体験によって、その観念が現実であることを無条件に受け入れるのです。思考それが私に必要な修行ですか?意識まさに、その「私」の修行です。修行とは、何かを期待する個人のエゴにもとづいています。それゆえ、あなたが修行をしている限り、まだそこにエゴがあるということです。思考では、どうすればエゴを取り除くことができるのですか?意識あなたがやりたいだけ修行をやることです。あなたが修行をやれるだけやっていくことによって、個人的行為者は存在しないという直観的理解が起こり、エゴは修行の中へ消えていきます。そして最後には、修行から何かを得ようと期待するどんなエゴも存在しません。それが修行の終わりです。思考修行とは、エゴがエゴを取り除くことなのですね。意識その通りですが・・・その修行は、神の意志と個人の運命による行為であることを忘れないでください。つづく人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村

  • 13May
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      ヨーガ・ヴァーシシュタ 第4章「存在についての教え」129

      「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキングヴァシシュタは語り続けた。はじめから存在せず、そして最後に存在をやめるものは、その中間(現在)でも存在しないはずだ。はじめから存在し、終わりにも存在するものは、現在も存在しているはずだ。「私自身を含めたこのすべては非実在だ」と知りなさい。そうすれば、あなたに不幸は起こらない。あるいは、「私自身を含めたこのすべては実在だ」と知りなさい。こうすることでも、不幸があなたに触れることはなくなる。富、妻、息子などを含めた宇宙全体が、心の魔法が生み出したものでしかないことを知れば、それを失っても嘆くことなどなく、それが栄えても得意になることはない。非実在の現れが消え去ったからといって、何を失うというのか? それがまったく実在しないものなら、どうして消滅できるというのか? それよりも、それが栄えたときに嘆くほうが適切だと言えるだろう。なぜなら、栄華は無知を強め得るからだ。それゆえ、愚者の心に執着と欲望を生み出すようなものは、賢者の心には無執着と無関心を生み出すのだ。努力しなければ得られない体験は望まず、すでに手にしている体験に満足すること、これが賢者の本質だ。どんな方法であろうと、もし感覚的快楽への欲望から心を引き離せるなら、妄想の海に溺れずにすむ。宇宙全体との一体性を悟って、欲望や嫌悪を超越した人は、けっしてマーヤー(幻想)に欺かれない。人気ブログランキング「応援クリックぽちっとお願いします」にほんブログ村