突然の理解
「いつも覗いて下さる方々感謝します」人気ブログランキングラメッシ・バルセカール Q&AQあなたは、探求者とエゴは違うと言っているのですか?Aいいえ、それらは同じです。それゆえ、探求は個人から始まるのです。探求は個人から始まり、そして、その個人の探求者が、自分がずっと求めていたものは、自分の実際のあるがままであり、探求者こそ求められているものであり、決して個人的探求はなかったことを理解するとき、終わるのです。でも、それは個人から始まり、この「個人的自分」が完全破壊されるとき、どんな個人的理解者も存在しないという直観的洞察があるときにだけ、ついに終わることができます。だから彼らは、それが突然の理解だというのです。Qすると、探求者が抜け落ちるのですね?Aはい、探求者は抜け落ちます。探求者が抜け落ちるとき、時間の経過が抜け落ち、時間が抜け落ちるとき、この理解は突然です。その理解は別の次元でしか可能ではありません。それは時間の経過の中にはないのです。Q探求は不可避でしょうか?A探求は不可避です。そのとおりです。Qそれゆえ、悟りもまた不可避でしょうか?Aもちろん、そうです。しかし、それは非個人的プロセスとして不可避であるということで、その非個人的プロセスにとっては、終わりがなければならないということです。で、どの肉体精神機構の中でそれが起こるかをあなたは気にしないのです。これが理解です。どの肉体精神機構の中でそれが起こるにしても、悟るのは肉体精神機構ではないということです。それは単にこの非個人的出来事が起こるための対象物にしかすぎません。ですから、どの肉体精神機構の中でそれが起こるか、あなたは気にしないのです。この「自分」という観念が、進化しつつあるのではありません。肉体機構が、その物理的機構を通じて最終的にこの非個人的出来事が起こることができるように、進化しつつあるのです。Q私には理解できないのです。私にはまるで選択があるかのように思えます。私は海辺へ行く代わりに、ここへ来ることを選択しました。A想定されている意志と行為の選択の自由は観念にすぎません。何がそんなに理解困難でしょうか? 宇宙の本質とその中での人間の役割に関する好奇心は、それ自身が原初の対象化の中にある意図の一部です。つまり、自分の本質を知りたいと思うことは、それ自身が全体性の機能の一部なのです。私たちは自分の本質を発見するようになっているのです。自分の本質を発見するとき、私たちは個人的対象物として見えるものではないという理解に至ります。全現象は本質が単に対象化された映像で、私たちがその本質なのです。Qそう言われても、まだわからないんです。A探求はあらゆる種類の挫折に到達しますが、それもこのプロセスの一部です。「自分」が、「私」が、その源泉を知りたいと思うのはかくれんぼのゲームです。ラマナ・マハルシはあるとき、自分の本質を知りたいと思って非常に失望している弟子にこう言ったことがあります。「あなたが本当に理解したとき、あなたはこの挫折に満ちた、知りたいという出来事を非常に楽しく思い出すことでしょう」。その瞬間まで、このジョークは非常に悲劇的です。個人から始まるこの探求が、個人の破壊で終わるまで、この実りない探求が実りないと理解されるまで、それは実に悲劇的です。「応援クリックぽちっとお願いします」人気ブログランキングにほんブログ村