国家賠償までの道のり:一肝炎患者の場合
島 浩二、島 式子 1 はじめに息子、大吾がB型慢性肝炎に感染 (ⅰ)(1985年3月)してから約30年が経過した2013年春、私どもはようやくカナダ(モントリオール、ケベック州)に滞在している息子の同意のもとに国・厚生労働省に対する集団提訴に踏み切ることにした。この間、なぜ息子がB型肝炎に罹患したのかとの疑問を抱き続けてきたが、集団予防接種における注射針・筒の使い回しによるB型肝炎の多発の事実を遅まきながら知った私どもにとって、この提訴に加わることは大きな光明となった。B型肝炎の持続感染者は、さしあたりは症状が安定していても将来にわたる肝機能の低下や肝硬変、肝癌の恐れを完全には否定できない。またこのような健康不安に備えたくても、ほとんど全ての医療保険で「B型肝炎の罹患歴がある」と告げると言下に加入を断られる状況のもと、本人・家族の苦悩が深まっていたからである。集団提訴に加わって3年、紆余曲折の末に今般ようやく国による賠償にこぎつけることができたので、その道程をかいつまんで書き記して私どもの苦闘に一つの区切りをつけることことにした(ⅱ) 。この文章が、私ども同様の理不尽な闘いを強いられる人々にとって何ほどかの意味をもてば幸いである。2 B型肝炎訴訟について2.1 注射針・筒の使い回しとB型肝炎感染の広がり日本では1948(昭和23)年以降、全ての国民が法律によって、幼少時に集団予防接種を強制的に受けさせられることになった。当時、集団接種の際に肝炎等の感染を防ぐためには、注射針や筒を一人ひとり交換しなければならないことが欧米ではすでに医学的常識となっていた。しかし日本では、同年に厚生省が制定した予防接種心得において「医師一人について一時間に注射する人数はおよそ150人分とする」と定められ、注射針や筒を交換すれば実際の接種は不可能となる目標が掲げられた。注射針・筒の連続使用が国・厚生省によって事実上黙認され、事実、ほとんどの予防接種の現場で連続使用=使い回しが1980年代まで行われた結果、日本でのB型肝炎を中心とする血清肝炎の感染者は最大140万人にものぼると見られている (ⅲ)。2.2 被害者による裁判闘争と基本合意の成立、除斥期間に関する妥協1989(平成元)年、5人のB型肝炎患者が被害救済を求める裁判を札幌地裁に提訴し、2006年6月には国の責任を認めて賠償を命じる最高裁判決が出された。しかし国は5人の原告以外に対する救済策の実施を拒んだために、2008年から全国の10地裁で順次被害者が集団で提訴を行った。その結果、2010年5月に札幌地裁で全国原告団と国との間で和解協議が始まり、2011年5月には札幌地裁の和解所見を原告・国双方が受諾することを確認し、6月に国の正式な謝罪を受けて「基本合意」が調印された。2011年12月には「特定B型肝炎ウィルス感染者給付金等の支給に関する特別措置法」(特措法)が成立し、基本合意を踏まえて被害者に対する給付金の支払いが定められた。同法によれば以下の4つの要件を満たす者は、病態に応じた給付金を国から支給される。① 昭和16年7月2日以降の生まれであること(昭和23年7月1日の予防接種法施行時以降に7歳未満であったこと)② B型肝炎ウィルスの持続感染者であること③ 母子感染でないこと(母親が集団予防接種による感染者で、その二次感染者である場合はこの限りでない)④ 集団予防接種以外の感染原因がないことなお特措法では、民法上の除斥(不利益の発生から一定期間を経過した場合に訴えの利益を喪失させること)の考え方が採用され、B型肝炎への感染・発病から20年を経過した患者には大幅に(約4分の1に)給付金が減額されている。ここには非常に深刻な矛盾があって、国が感染拡大の責任を長期にわたって認めなかったために、20年以上前からB型肝炎で苦しめられている患者の方が、比較的最近罹患した者よりも給付金が低くなるのである。後述するように、被害者に対して除斥の考え方を採用するのは誠に不適切の極みである。しかしこの点にこだわって患者の救済が遅れることを危惧した原告団は、除斥問題の解決を将来の課題として棚上げした。その後除斥の矛盾は広く認識されつつあり、昨年成立した「基本合意2」では、病態が死亡・肝癌・重度の肝硬変の被害者については除斥を認めず、発病後20年以上経過していても差別なく給付金が支給されるように改められた。今後の原告団と国との協議によって、全ての病態にわたって除斥の不当性が見直される方向にあることは間違いない。2.3 和解の要件について:息子の場合上記したように、国に対する提訴・和解に至るためには4つの要件を満たしていなければならない。まず①の年齢については、1979年(昭和54年)8月生まれであるので問題なくクリアしている。②についてはこれまで通院した全ての病院のカルテ等の医療データの開示を求め、それに基づいて一定期間(6ヶ月)にわたって継続的にGPTが40以上であることを証明しなければならない。後述するように息子の発病は1985(昭和60)年で、それ以降少なくとも7つの医療機関にかかっているが、日本の医療機関では一般に、電子カルテの採用以前の医療データは5年程度しか保存されておらず、それ以降は破棄されている事が多いので、データ開示には困難が伴うと予想された。また提訴を検討した2013年は発病から30年余経過しているので通常は除斥対象となるが、開示される医療データの時期がいつかによっては、特措法上で発病と認定される時点が実際の発病時点よりも早まることも考えられる。その場合には除斥が該当しない可能性もあることが想定された。また、保管されていた母子手帳から予防接種を受けたことが確認され、さらに両親の血液検査結果によっていわゆる二次感染でも母児感染でもないことが明らかになり、輸血を伴う手術なども受けていないことから、③④ともに問題なくクリアした。3 発病から提訴まで3.1 父親の発病1984年末から風邪様の症状で不調を感じていた大吾の父親は、翌85年初に顕著な黄疸症状が現れ、急性肝炎と診断されて1月9日から3月3日まで京都国立病院(現国立病院機構京都医療センター)に入院した。入院中にB型肝炎と判明したが、当時B型肝炎ウィルスに対する有効な薬はなく、絶対安静と栄養剤の点滴だけで肝機能の回復を待つ以外に特別の治療法はなかった。幸い急激に悪化した急性肝炎は回復も比較的早く、B型肝炎ウィルスの抗体は未検出ながら肝機能はほぼ正常値となって退院することができた。数年後にはセロコンバージョン(ⅳ)も確認され、さらにその後完治と診断されている。3.2 息子の発病と京大病院への入院父親の退院の2週間後に、5歳の息子が折にふれて腹部を指差して「しんどい」と訴えるようになり、顔色もすぐれないことに気づいた私どもは、まさかと思いながらも知り合いの病院で検査すると、GOT、GPTともに85〜90の数値を示していた。それほど高い数値ではないが、正常値でもない。私どもは直感的に父親からの感染を疑って極度の不安に陥り、京大病院で診察を受けた。京大病院小児科のドクターも両親と同様に、数値そのものの高さというより父親からの感染を疑って直ちに小児科伝染病棟への入院を指示し、私どももそれに異議なく従った(1985年3月22日)。この入院は5月20日までの約2ヶ月続いたが、父親同様、息子についても食後の安静を指示されるのみで積極的な治療は何もなく、肝生検(ⅴ)はもちろんのこと点滴すら行われず、ただ定期的な血液検査に一喜一憂する毎日だった(入院中の血液検査はほぼ週2回、全部で数10回に及んだ)。GOT、GPTともに高い時で260程度、低い時で50台後半を推移したが、これ以上数値が上がれば点滴を開始すると言い渡された直後から、入院時の数値を少し上回る程度で落ち着いた状態になった。それほど高くない数値で入院したことから、その後も主治医はなかなか退院を決断できず、何も治療を行わないままにズルズルと入院が長引く中で、新鮮な空気と自然な生活環境を求めて両親は退院を強く希望し、5月末にようやく認められた。その後7月に入り、長野県白樺湖畔へ転地療養して2週間をすごし、息子は血色もよくなって元気を取り戻した。なお退院後、京大病院への通院時に、父親の肝炎が息子に感染したのではなく、逆に息子から父親への感染が起こったことが判明したとの説明をドクターから受けている(その医学的根拠については不明である)。 3.3 その後の通院歴退院後も慢性肝炎のフォローアップのために1ヶ月1度の頻度で継続的に以下の医療機関に通院した(ⅵ)。なお1986(昭和61)年8月から翌87(昭和62)年3月までは、父親の留学先であるイギリス(レスター市)に家族で滞在していたために通院歴していない。• 1985(昭和60)年6月~1986(昭和61)年7月(5歳) 京都武田病院 • 1987(62)年7月~1992(平成4)年(6歳から12歳まで)神戸市立中央市民病院東灘分院 • 1992(平成4)年~2006(平成18)年(12歳から26歳まで) 六甲アイランド病院小児科 • 2006(平成18)年~2009(平成21)年(26歳から29歳まで) 京都桂病院 • 2009(平成21)年~2012(平成24)年 (29歳から32歳まで)神戸市立中央市民病院 • 2012(平成24)年〜現在 (32歳から現在まで) 京都中央診療所この間、1992(平成4)年10月5日から17日まで、肝機能の悪化が見られたために医師の指示で六甲アイランド病院に短期の入院をした。最近はほぼ1年毎の帰国の度に検査を受けているが、症状の顕著な変化は見られず、安定している。4 提訴から和解まで4.1 医療データの開示請求、提訴特措法による提訴期限と当初定められていた2017(平成29)年1月(ⅶ)が近づくにつれて、新聞・テレビ・電車内広告などで「給付金が受け取れる」旨の広告が目につくようになり、2013年7月、両親は全国B型肝炎訴訟大阪弁護団の相談会に参加して提訴を決めた。担当になった豊中のS弁護士の指示に従って、直ちに7病院に対して息子の医療データ開示の請求を行ったが、京大病院、武田病院以降六甲アイランド病院までの4医療機関(1985年から2006年まで)については基本的に医療データが破棄されていて「医療データ不存在の証明」が得られたにとどまり、2006年の京都桂病院以降の医療データしか得られなかった。したがって1.2項で述べた②の証明については、京都桂病院の比較的新しいカルテを用いて国側に提出した。つまりこの時点では除斥の対象から外れると考えられた。ただし、六甲アイランド病院の一部データ(主治医であったYドクターの初診時のカルテ)だけは残されていて開示され、そのカルテには「京大HPにてS60年にIFN&steroidtherapy」と書かれていた。この記載が後に大きな問題になる。また京都桂病院へ転院の際のYドクターの紹介状にも同様の記述があったと見られ(紹介状は残されていない)、桂病院のSドクターのカルテにも上と同じ趣旨の記載があった (ⅷ)。これは京大病院入院時(1985[昭和60]年)にインターフェロン、またはインターフェロン・ステロイド併用治療を受けたことを意味する記載と思われるが、前述したように京大病院では、栄養剤等の内服薬は投薬されたかもしれないが、それ以外の積極的な治療は一切行われておらず、事実誤認の記述がYドクターの誤記によって京都桂病院にまで引き継がれてしまったことになる(ⅸ)。ともあれ、以上のように開示された医療データに母子手帳、両親の血液検査結果などを添えて、2013年11月末に和解を目指して国を提訴した。弁護士からは少なくとも1年は放置されるから気長に待つようにとの注意を受けた。4.2 インターフェロン・ステロイド治療についてそもそもインターフェロン・ステロイド治療とはどのようなものか。インターフェロンは数少ない抗ウィルス薬としてB型肝炎やC型肝炎の治療に使用されているが、深刻な副作用も知られており、小児への使用には慎重を期す必要があるとされている。またステロイドは「ステロイド・リバウンド療法」に使用され、ステロイドによって一時的に免疫機能を低下させた後に急に中止することでヒト本来の免疫力を一気に活性化させる療法である。一時的とは言え、免疫機能を低下させることから一般的な感染のリスクが高まること、さらに肝炎の重症化を引き起こすこともあるために極めて危険性の高い治療法である。私どもが折にふれて見聞きした事例では、長期の闘病にもかかわらずセロコンバージョンが起こらない成人の患者に対するいわば最後の治療法として行われているように思われ、重症化していない小児に実施される例は全く目にしなかった。そもそもB型肝炎は乳幼児期には無症状のことも多く、息子の場合も父の発病の直後で親子ともに神経質になっていなければ見過していたのではないかと思われる。免疫作動期を迎える青年期になると自然にセロコンバージョンを起こす可能性も高く、比較的軽症の5歳児に対して長期の経過観察もなしにいきなりインターフェロン・ステロイド療法を行うことは、医学的常識に反しているとさえ言いうる。これらの点についてYドクターが少しの注意を払っていたならば、両親や京大病院への問い合わせなどによって誤記を防げていたのではないかと考えると、返すがえすも残念としか言いようがない。4.3 国側弁護士による除斥の通知S弁護士の指摘どおり、国側弁護士から何の音沙汰もないままに提訴から1年半が経過し、さすがに少し遅すぎるとS弁護士を通じて打診した結果、2015年6月に国側の弁護士から次のような通知が届いた。それは上記Yドクターの誤記(下線部)を引用して、(このように)「記載されており、原告が昭和60年の時点でインターフェロン治擦及びステロイドリバウンド療法を受けたことが認められます。インターフェロン治療は強い副作用があること、ステロイドリバウンド療法は肝炎の劇症化を招く危険性があること等から、いまだB型慢性肝炎の確定診断を受けていない患者に投与することが通常考えられないことからすると、原告は遅くとも昭和60年の時点でB型慢性肝炎を発症しており、慢性肝炎について除斥期間を経過している可能性が認められます」とされていた。この通知は私どもにとって全く意外なものであり、二重の意味で受け入れ難い内容だった。確かに大吾の発病は1985年であり、私どもにそれ隠す意図は全くない。しかし特措法によれば、持続感染者であることを証明するためには開示された医療データによってGPTの数値が継続的に規定水準以上であることを示す必要がある。したがっていつの時期の医療データが開示されるかによって、実際の発病時期ではなく、それよりも後の時点を発病時期とせざるを得ないことが起こりうるのである。このようなズレが生ずるのは、原告の意図や思惑とは全く別の事情、すなわち日本の医療機関のほとんどが医療データを5年以上保管していないことだけに由来している。特措法の定めた手続きに則って発病時点を立証したにもかかわらず、それを無視して一片のメモを根拠に発病時点を過去に遡ることは、国が自ら定めた規定を覆す行為にほかならず、データ開示のために走り回った私どもの時間と労力を蔑ろにするものである。そして第二に、すでに述べたようにインターフェロンやステロイド治療の危険性は広く知られており、症状が重篤でない幼児に敢えて危険な治療を施す必要性もなければ医学的慣行もなかった。ということは、このメモが何らかの誤りであると推測しうる十分な事情があるにもかかわらず、国側弁護士は逆に、そのような危険な治療を行ったことは原告がすでに慢性肝炎を罹患していた証拠であると断定するのである。全く逆立ちした論理と言わざるをえない。国側弁護士のなすべきは、まず医学的常識にしたがってメモの妥当性を検討することであるにもかかわらず、そのような検討を全く行うことなく、メモが真実と推認される場合にのみ導かれるべき結論を、除斥を適用する根拠として用いている。このような主張は、法が求める論理的・合理的な推論と呼べるだろうか。ただ除斥の対象を広げて給付金の額を減らすことを目的に、その正邪を精査せずにメモに飛びついたとしか私どもの目には映らなかった。京大病院のドクターの指示に私どもが従い、京大病院小児科の伝染病棟への入院を即座に了解したのは、息子の症状が重篤だったからではない。ひとえに発病のタイミングがあまりにも悪く、父親の発病・入院の直後であったことが私どもと京大病院のドクターを必要以上に怯えさせたからである。そして2ヶ月に及ぶ入院の日々はひたすら検査結果に一喜一憂していただけで、インターフェロン・ステロイド療法などを打診されたことも受諾した覚えも一切ない。当時の京大病院小児科伝染病棟は、ほぼ全面的に建て替えられた今日の京大病院とは雲泥の差で、病院敷地の北東の端に孤立して佇む木造二階建てのうす暗い老朽化した建物だった。若い数名のドクターと、中央部から追われた感のある看護師が配置された、寂れ果てたという以外に形容しがたいこの施設の一室に収容された息子は、B型肝炎=伝染病という理由から両親以外の付き添いはもちろん面会すら一切認められない、異常な隔離状態に置かれた。病を得た自覚のない息子に食後の安静を守らせ、夜はベッドから転落しないように見守るために、母親と病み上がりの父親が交代で付き添い、夜も病室の木のベンチに寝泊まりして、ここから職場に通わなければならなかった。京大病院の近くに住む母親の両親と弟夫婦は精一杯の援助とともに、いつでも付き添いを代わる意志を示してくれたがそれは全くかなわず、毎夕病棟の窓の外で息子に激励の言葉をかけてくれるほかに為す術もなかった。当時小学4年生(9歳)の姉でさえ、短時間の面会すら認められない異常に厳格な隔離方針は、今日では到底考えられないであろう。まるで牢獄のような病棟に閉じ込められ、いつ出られるかまったく先の見えない日々が延々と続いたこの時期の精神的、肉体的苦しみを思うと、誤記を根拠に除斥を押し付けようとした国の態度に対する激しい憤りを、30年余り経過した今日でも抑えることができない。4.4 誤記の背景六甲アイランド病院のYドクターには非常に親身になって主治医としての役割を果たして頂いたから、彼が意図的にこの誤記を残したとは考えられない。ただカルテ等にドクターが何を書いているかは、開示請求するような特別な機会以外には患者やその家族には知りようがないことも事実である。もしこのメモの存在を早期に知ることができれば、誤記を正していただくような話し合いが持てたのではないかとも思うが、Yドクターの事故死という不幸な事件が起こらなかったとしても、そのチャンスはなかったと思われる。したがって誤記の背景は推測する以外にないが、おそらく次のような事情であっただろう。前述したように、イギリスから帰国した1987年夏以降通い始めた東灘分院のHドクターは、息子が10歳を超えたあたりから、なかなかセロコンバージョンが起こらないことにしびれを切らしてしきりにインターフェロン治療を勧めはじめた。私どもは以前からインターフェロンやステロイド治療の苦しさ、副作用の酷さ、またその治療が成人に限られていることなどを耳にしていたので、知人のドクターに相談したり書物を読んだりして、それだけはどうしても避けたい、いま少し時間をかけて息子の身体の発達と抵抗力の増進に期待したいと考えていた。しかしHドクターは非常に強引で、次回の診察時にはインターフェロン治療を採用することを決めると断言したために、私どもはHドクターから逃げるようにして六甲アイランド病院へ移った。その辺りの事情の説明が混乱したのか、聴き手が混乱したためか、インターフェロン・ステロイド治療をすでに京大病院で受けたとの誤ったメモがYドクターによって書かれてしまったものと思われる。4.5 国側弁護士からの再度の通告と、最後の手段の失敗しかし、ドクターの「誤記」が10年以上の間を置いて2つの病院に引き継がれたという私どもの説明は、国側弁護士の受け入れるところとならなかった。2015年12月に国側弁護士が寄せた返答で、医師の誤記が引き継がれたという説明は直ちに合理的とは認められない、昭和60年の時点でB型慢性肝炎を発症していた事実がないと原告が主張するなら、京都桂病院の医療記録にも同様の記載があるのはなぜかを説明せよと、私どもには全く不可能で理不尽な要求を突きつけてきた。私どもに残された最後の手段は、京大病院の主治医を探しだし、息子の事例についてはともかく、5歳児にインターフェロン・ステロイド治療を行うことが当時の京大病院小児科ではありえなかったことを陳述してもらうことしかないと考えた。上述したように、この療法は成人の患者に対する最後の手段という性格をもち、小児への実施は医学的常識から考えられなかったからである。3〜4人いたと記憶する息子の主治医のうち、武田病院に移動後、同志社女子大学に転出されたIドクターと、いま一人は福井の私立大学の学長になられたMドクターの所在が分かり、事情の説明とお願いの手紙を送った。前者は1ヶ月以上経過した後に、息子のことは覚えているとされながら、インターフェロン・ステロイド療法が当時の京大病院小児科で行われていたか否かには触れずに、「慢性肝炎で入院したのであればその当時慢性肝炎だったという以外ない」と、特措法の趣旨を理解しない、見当違いの見解を述べ、裁判所への書面での陳述を拒否する旨返答された。また後者は比較的早く返答を寄せてもらえたが、息子のことを全く記憶していないので陳述できない旨が書かれていた。カルテが残されていない以上、30年前の患者の状態について確たることが言えないのは不思議でないが、自分が勤務した病院で特殊な治療が行われていたか否かについてさえも答えようとしない医師の態度をどう理解すればよいのか、私どもは当惑するとともに、彼らに対する深い不信を感じた。いずれにせよ私どもに残された最後の手段は全くの失敗に終わった。4.6 決定的な証拠と国の主張の撤回息子も含めて私どもは、もしこのような国の主張によって除斥とされた場合、その結果を唯々諾々と受け入れることはとうていできず、除斥の不当を裁判で訴えることも辞さないとの判断に傾いていた。事実、20年以上前に発病したために除斥扱いを受ける患者の何人かが除斥の不当を訴える裁判を起こしていたし、また前述したように、重い病態については20年の除斥を認めない「基本合意2」も成立していたからである。この時、S弁護士は起死回生の有り難い働きをしてくれた。1985年に5歳の幼児にインターフェロン治療をしたとメモに書かれていたとしても、その当時にインターフェロンが製品化されていなければ京大病院のドクターには使いようがなかったはずである。考えてみれば当然の疑問であり、本来ならば京大病院の当時の主治医こそがやるべきことであっただろう。弁護士によるとネットと電話を使った比較的簡単な調査だったらしいが、それによって以下のことが明らかになった。① 厚生労働省が我が国においてインターフェロンをB型肝炎の治療薬として初めて認可したのは 1987年である。「イントロンA」(MSD株式会社)は同年に厚生省の承認を受け、保険適用のための薬価基準に収載されたのは同年11月であり、実際に使用され始めたのは1988年初であったと思われる。また「スミフェロン」(大日本住友製薬株式会社)は1987年に腎臓癌の治療薬として販売を開始され、B型肝炎の治療薬としては翌1988年から販売された。したがって、どちらのインターフェロン剤も1985年時点で医療機関が使用することは不可能である。② 「イントロンA」も「スミフェロン」も、添付文書において「幼児、小児に対する安全性は確立されていない」と明記されており、仮に1985年当時にこれらの薬剤を使いうる状況にあったとしても、京大病院小児科のドクターが親の同意なしに5歳児の患者に使用することは極めて考えにくい。これにより、Yドクターのメモは誤記であることが明白になった。もしこれを覆そうとすれば、1985年の京大病院のカルテの中にこれとは反する記載を見つける以外にないが、それは不可能である。そして京都桂病院のSドクターのメモも、Yドクターからの紹介状に書かれた誤った記載を引き写したとしか考えられず、同様に事実誤認であること、つまりYドクターの「誤記」がその後10年余りに及ぶ誤記の連鎖を生んだことがついに立証されたのである。この事実を受けて、2016年7月に国は息子に関する除斥の主張を撤回し、2016年9月の法廷で和解する旨を通告してきた。2013年11月の提訴からおよそ3年が経過した後の完全な勝利であった。5 終わりに最後の逆転によって幸いにも良い方に転がったが、勝敗はまさに紙一重のところで、今頃私どもは国側の言い分を崩せずに、悔し涙にくれながら新しい裁判の検討を始めていたかもしれない。最後にB型肝炎被害者救済における除斥期間の不当性と、持続感染を証明するデータ収集の困難について少し触れておきたい。5.1 除斥期間の不当性除斥期間とは、一般に民法上の権利関係の紛争をいたずらに長引かせず、一定期間の経過によって権利を解消させる制度を指す。例えば詐欺行為などによる被害者が、被害発生から20年以上怠慢や不注意など何らかの理由で法的なアクションを取らずに放置した場合に、訴えの権利が消滅するということである。確かに長期間経過した不法行為については関係者の所在すら突き止められないことがあろうし、そのような状態では事実関係を正しく認定すること自体が困難であろう。その意味で一定の除斥期間を認めることは、裁判制度上合理的と理解できる。しかしB型肝炎の被害者救済についてはどうか。注射針・筒の使い回しは敗戦直後の1948年から国によって黙認され、そのために罪もない人たちの間にB型肝炎の感染が広がった。これに対する国の責任を問う裁判が最初に起こされたのはそれから40年以上が経過した1989年であり、国の責任を認める最高裁判決が出されたのはようやく2006年である。またこの裁判の原告だけでなく、全ての被害者に国の賠償を認めるための基本合意と特措法が成立するまでにはそれからさらに5年の歳月を要した。つまりたとえば敗戦直後の早い時期に感染が明らかになった人の場合、よほどの条件に恵まれなければ2011年まで国の責任を求めることはできなかったのである。ほとんどの被害者が怠慢からでも不注意からでもなく、B型肝炎についての情報が極度に乏しい中で、予防接種によって感染させられたことには気づきもしていなかったからだ。20年の除斥期間を認めることは、1948年から1991年(特措法成立の20年前)までの40年余の間に発病した被害者が、なぜ手を挙げられなかったかを不問にしたまま、手を挙げるのが遅かったという理由で、それ以降の被害者に比べると不十分にしか救済しない(給付金が約4分の1に減らされる)という形で差別することを意味する。一体、早期に感染した患者の方が1991年以降に発病した患者の4分の1の苦痛しか蒙らなかった、したがって彼らを給付金の額で差別する理由があるとでも言いいたいのか?それはあまりにも不当であり残酷である。早い時期に発病した患者ほど、医師を含めて社会全体にB型肝炎に対する知識が少なく、伝染病であるがゆえの的はずれな差別や蔑視にさらされたり、あるいは医療機関の継続的な観察や治療が必要なことを知らずに放置したために、思いもよらぬ重症化に苦しめられたり、職を失ったり、家庭崩壊の苦難にさらされた人が少なくないのである。国の責任で苦しみを背負わされた人を救済するための法が、より長く苦しめられた人を理不尽に差別することには大きな矛盾を感じざるを得ない。法秩序の維持のために認められている除斥期間を、B型肝炎被害者に適用することは全く不適切であり不当であることを繰り返し強調したい。5.2 感染時期を証明することの困難これまでは触れなかったが、医療データに基づいてB型肝炎の持続感染を証明することにも固有の困難がある。2.2項、2.3項で述べたように、提訴に参加するためには、開示された検査データから一定期間継続的にGPTの数値が40以上あったことを示さなければならない。これは当たり前のことと思えるが、古い医療データがほとんど例外なく廃棄されている日本の状況では意外な困難に逢着する場合がある。息子の場合もそうだった。息子が発病から数年間、私どもが残しているメモによるとGPTが40を下回ったことは一度もない。したがってこの時期のカルテが残されていれば、除斥の問題はあったにせよ、上記の証明には何の支障もなかったはずである。しかし前述したように、私どもが利用できるデータは息子が20歳台後半になった時のものしかなかった。その当時、彼の体内にはB型肝炎ウィルスが未だに潜んでいたとは言え、青年期の身体の成長と免疫力の増進によってウィルスの活動は比較的不活発になり、彼の一般的な健康状態は良好であった。その状況で、概ね月に1回程度検査するGPTの数値がたまたま一度でも39以下に低下することなく、40以上であり続けるような6ヶ月の期間を探すことはそれほどたやすくはなかった。法が定める基準値はあくまでも一つの目安であり、持続感染状態にある身体の複雑な状態を科学的に示す数値ではないからだ。弁護士と検査データを何時間も付きあわせて、そのような検査結果をようやく見つけ出した時には喝采を叫んだものである。国家賠償を受ける前提として客観的なデータの提示が必要なことは言うまでもないが、わずか5年間で医療データが廃棄されるような日本の医療体制のもとでは、その事自体にも被害者に多大な労力を強いる場合があることに思いを致してほしい。これ以外にも、母親が死亡しているために母児感染でないことを容易に証明できない事例や、70歳近くの患者が自分の母子手帳を見つけられないために予防接種を受けたことを証明できない事例など、前述の①〜④の要件を立証すること自体が困難であることから、提訴を断念せざるを得ないことも稀ではないと聞く。被害者の怠慢や不注意からでなく、ひとえに国の姿勢によって無駄に長い時間が経過したことから、本来は簡単であるべき立証作業に膨大な時間と労力が必要になり、それによって救済を求められない場合すらあることを強調しておきたい。2016年9月註(ⅰ)ウィルスの感染によって引き起こされる肝炎には急性と慢性がある。急性は劇症化して死に至るような場合もあるが、一般には侵入したウィルスに対する体内の抵抗力が急激な反応を引き起こして、慢性化せずに治癒することが多い。それに対して幼少時など抵抗力が未発達な場合にはウィルスに対する反応が弱く、身体から排除できないままに慢性化することがある。国による救済の対象となったのは、予防接種によって感染して慢性化した持続感染者である。(ⅱ)以下において、言うまでもなく可能な限り正確な記述を心がけたが、医学的な知見については思わぬ誤りがあるかもしれないことをあらかじめお断りしておく。(ⅲ)奥泉尚洋、久野華代『B型肝炎 なぜここまで広がったのか』岩波ブックレット、2015年(ⅳ)セロコンバージョンとはB型肝炎ウィルスの抗原(HBe抗原)がマイナスに、抗体(HBe抗体)がプラスになった状態のことで、B型肝炎ウィルスの活動が抑え込まれたことを意味する。ただし必ずしもウィルスがなくなって完治したことを意味するわけではない。(ⅴ)肝臓に針を刺して細胞や組織を採取し、顕微鏡で詳しく観察する検査法のこと。血液検査やCTスキャン、超音波検査などとは異なり、顕微鏡で直接組織を観察できる最も確実な検査法である。しかし患者への負担が大きいために、全ての患者に実施できるとは限らない。(ⅵ)それぞれの医療機関を選択/転院した理由は以下のとおり。京大病院の主治医の一人であったIドクターが入院中に京都武田病院へ移動されたので、病歴をよく承知しておられることから、京大病院退院後は武田病院に通院した。イギリスから帰国後は、住まいに近く、また市民病院分院という名称に医学的権威も感じたので東灘分院に通院した(この分院は現在存在していない。なお医療データ開示を請求する過程で、この医療機関が市民病院の分院ではなかったことが判明した。ではなぜ「分院」と称していたのかなど、詳細はよく分からない)。数年後、この分院の小児科医Hドクターからインターフェロン治療を強く勧められたが、後述するように両親は同意できなかったので六甲アイランド病院小児科に転院した。その後息子が歳を重ねて小児科は通いづらくなったために、六甲アイランド病院小児科医長(後院長)Yドクターの推薦で京都桂病院にかわり、桂病院の主治医Sドクターが地方病院に移動されることをきっかけに神戸中央市民病院にかわった。その後知人のドクターが院長を務める京都中央診療所にかわって現在に至る。(ⅶ)その後提訴期限は5年間延長されている。(ⅷ)ただし息子の転院の前後関係に関するSドクターの記述は明らかな間違いがあり、Yドクターが正確な紹介をしていたのか否かは不明である。残念ながら、カルテの記載内容について、患者や家族は特別の事情がない限り知る由もない。(ⅸ) Yドクターは小児科医長から六甲アイランド病院の院長に昇任されたが、その後趣味の登山の際の事故で亡くなっており、今となってはご本人に確かめることはできない。