明治の半ば近代国家の確立とともに旧制高校・旧制大学も開設されるようになり、しばらくしてエ リート集団に対する批判は大正期にはじまった。大学教授〈知識人〉の頭には現実の生活から遊離した観念しかない、それが典型的かつありふれた批判だろう。しかしこの〈知識人〉を批判する輩が曲者で、彼らこそ知識人と思ってよいのではないか。そもそも知を愛するものがいても自分のことを堂々と知識人と言う人はいないし、いたとしても誰からも相手にされないのがオチなのだ。〈知識人〉を批判する知識人が存在できたのは、依然として権威ある大学があったからで、60年代半ばに廃れることになってもそれは批評の力によるものではなく資本主義の力によってである。戦前・戦後初期の旧制中学(現在の高等学校)の進学率は多いときで8パーセントだったが、高度経済成長期を経て過半数が大学に進むようになり、今となっては選ばなければ全員が入れる。
《知識人とはそれ以前の〈知識人〉を疑い、あるいは〈知識〉を疑うような人たちである。知識人は学者でもない。職業でもなく階級でもない。それは知識・「知」の質で問われるのではないし、「知」の問題を本質的に考えているわけではない。それはいわば自己意識のようなものである。この自己意識は、ヘーゲルが「不幸な意識」と呼んだように、自己の根拠を絶えず自己の外に見出すほかない。したがって知識人はその最初から「知」に対して否定的であり、その外部に生活、大衆、常識、イノセンスを想定している。むしろ知性がなくても知識人になれる。なぜなら知識人とは大衆ではないという自己意識であり、しかもその根拠がたんに知識を否定する自己意識にあるからだ。知識人が最も嫌うのは、書斎での研究に自己満足しているタイプの学者である。「書斎の外へ」というのが知識人なのだ。》
『終焉をめぐって』 柄谷行人
質の悪いことに自分は大衆とは違うと思いながらも大衆の支持をほしがっている。「知」とは大衆から遊離するものなのだが。しかも拠り所とする大衆、根の下りた生活など彼ら知識人の創り上げた観念でいつの時代も実在しない。愛国革新をとなえる農本主義者橘孝三郎は昭和7年にある農民たちの対話を記録している。(日本愛国革新本義)
「どうせな、ついでに早く日米戦争でもおっぱじまればいいのに」
「ほんとうにそうだ。そうすりゃ一景気来るかもしれんからな、ところでどうだい、こんなありさまで勝てると思うかよ。戦というものは腹がへってはかなわないぞ。」
「うむ、そりゃそうだ。だがどうせまけたって構ったものじゃねえ、一戦争のるかそるかやっけることだ。勝てば勿論こっちのものだ。思う存分金をひったくる、まけたってアメリカならそんなひどいこともやるまい、かえってアメリカの属国になりゃ楽になるかもしれんぞ。」
昭和初期のマルクス主義知識人は大衆に情念で訴えながら、実は理論より実践と言って大正インテリの「知」を弾圧して回ったと言うほうがふさわしい。しかし旧制高校が改編され〈知識人〉がほぼ絶滅してしまった状況で知識人を批判する〈知識人〉が増長しだすとどうなるか?理念なき現状の肯定である。かれこれ10年近く、日曜日の午後視聴率の取れるバラエティー番組で政治中心の討論をやっている。一人は保守派の重鎮で人間的には尊敬できるのだがそこに取り巻く連中がひどくて、好き放題おしゃべりをする。たった一人だけはっきりわかる左翼・革新派がいるのだが、自衛隊・憲法・戦争責任について話すとよってたかって袋叩きにあう。他に、元台湾人女性で中国からの独立運動に関わった経歴のある方が近年日本に帰化した。彼女が言うには、国を守るという気概が今の政治家、若者に欠けている、憲法改正が急務であると。もういい加減にしてほしい。「どうぞ、台湾にお帰りください」といいたくなる。
一ヶ月前に静岡で「日本国憲法9条を実現すること!」の講演を聴きにいったのだが、ゲストであった政治学者、山口二郎氏の発言は印象に残っている。たとえアメリカ人によって強制的に作られた憲法であっても、終戦直後は多くの国民にとって抱きしめたくなるもので、思想としても絶対に正しいし、方向としてはそちらに向かうべきなのだ。即自衛隊解体、即安保解体というのは不可能であるのはわかる。現実に合わないといわれれば当たり前で、それは理念なのだから。しかし捨て去るべきではない。100年後、200年後を考えると守り抜くのがいいに決まっている。 アメリカによって作られた憲法を私たち自身のものに創り直すべきだという時の自主性・主体性というのはどうも胡散臭い。マルクスの言葉にある。《人間は歴史を作る、しかし思うようにではない。過去から与えられ持ち越された条件の中で作るのだ。》含蓄のある言葉ではないか。当時、強制でしかなかった9条は独立後簡単に書き換えることができた、なのにしなかった。あの戦争体験が生々しく生きていたから。どうしても主体といいたければ、この強制され持ち越されたあとから自分たちで選んだもの、9条を死守したことを誇りに思えということになる。逆に日本人が恣意的に決めていたのならとっくに消されていただろう。社会主義者でさえ赤軍を作ろうとしていたのだから。
マルクスでなく、マルクス主義者への批判がある。
《それやこれやを考えあわせると、人々の前で預言者面をしようなどという勇気はなくなってしまうのであって、むしろ私は、お前は何も慰めを与えてくれないのではないかという世間の非難を甘んじて受けようと思う。すべての人々が熱烈に求めているのは、結局のところ、この慰めであって、この点では最もラディカルな革命家も従順この上ない信心家も少しも変わりない。》
『文化への不満』 フロイト
貧困の悲惨を味わい金持ちの冷淡と傲慢を経験したことのある人、今なお経験している人は所有の不平等から生まれるさまざまな問題を克服する活動に理解と好意を持つのは当たり前だが、フロイトが言いたいのは個人に物質的な財産を放棄させたからといって性的関係の特権は残されている。強い嫉妬と敵意を生む性的特権までも廃止して性までも開放するなら家族も同時に廃止される。フロイトはわざわざ諦めを告白するためにこの本を書いたのではない。歪曲することなく現実を受け入れようとする。その上で時間がかかろうと、未解決で終わろうと希望を見出そうとする決意がある。いい加減に現実を認識してシニシズムが蔓延する社会にしてしまった知識人とは何と隔たりのあることか。
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