物事には道理があります。
それは必ず説明が出来るものです。

その説明の仕方は自分の価値観と言葉のボキャブラリーによるところが大きく、自分の中では激しく納得している事も他人には理解を得られない事がよくあります。

理解を得られないと人は感情的になったり
孤独を感じたりします。

同じ志や言葉を持つ者はその道理の
説明を理解した気になり相手に好意を寄せ同調し、そうでない者は相手を否定したりバカにする事で自分を認めまた主張しているのです。
自分というフィルターを無視したまま、いったい人はナニモノと会話をしているのでしょうか。

全ては幻想?物事が幻想?
その道理が幻想?
道理の説明こそが幻想?

いや、そんな事わざわざ考えて話す人なんてなかなかいないですよね。
物事はものすごくシンプルなのに、その媒体や人の動きが複雑になるのと比例して心の貧しさや人としての品格が奪われているように感じます。

「さようなら」という言葉は本来、左様ならばというありのままを受け入れる言葉です。
でも、多くのその言葉達は別れにのぞんで使われています。
言葉の意味をちゃんと知らずとも言葉は使えます。それと同じように人がナニモノかを知らずとも人は人と繋がっていられるのです。

私は相手がナニモノなのかという思考を巡らせずに本当の愛はないと思っています。
愛のないsexは最高のオナニーです。 
それはそれで気持ちいいのでついつい間違えてしまうんでしょう。
フィギュアになったアニメの女の子を愛するオタクと何が違うのでしょうね。
自慰的な恋愛を生みだすのもこの現実の策略なのでしょうか。

評価される評価する場合において私は酷くストレスを感じますが、社会の中における現実とはまさしく評価の事を言うのではなかとも思っています。
具体的に言えば、住む家が良い、高収入である、いい大学を出てる、都会に住んでいる、結婚している、ジョウシキが分かっている、、、ナドナド。

多くの人がゲンジツという名の評価に囚われていますし、そうなってしまうのも分かります。
昔も今も、生きていくチカラとなる強い遺伝子を残すのが人の宇宙の使命です。

狩が上手な強い男がモテてきたように、このゲンジツを上手に泳げる男が優秀な遺伝子を持っているという根拠のない確信、とでも言うのでしょうか。

〝根拠のない確信〟と言ったのには理由があるのですが、昔に比べて現代は生きていくチカラをどこで測るのかが非常に曖昧で難しいと思うのです。

ある一定の評価、ある一定の安心保証。
自分を基準に評価されるべきものが、ゲンジツを基準に評価しなければ生きていけないのではないかという恐れ。

その恐れもまた、生きていくチカラだといえばそうなのでしょうが。

しかし一定の価値と引き換えに奪われたモノの代償は個人が担っています。それに気付かないという事もひとつの幸せなのかもしれません。
でもそれに気付いてしまった人は、この現実をどう生きるかについて悩み考える事になります。

全てにおいて知識や価値観やボキャブラリーが問われる時代なのだとしたら、また冒頭の話からループしてしまいますね。


さて突然ですが、社会不適合だと自分で言っている知人Aさんの話をしたいと思います。
Aさんは社会的に批判されやすいのです。

友達の結婚式は忘れ、ストーカー行為の先に愛を育み、言い訳はするし、あーでもないこーでもないと比較検討無限ループちょーめんどくせーし、決めつけたら曲げないし、それに対して悪びれてもいないし、好きな人にどストレートだし、それが覆った時もきっとどストレートだろうし、きっとそれにも悪びれないだろうし、落ちるとこまで落ちても諦めは悪いし、メンタル弱いくせに強がりだし、分かってないのに分かってるって肯定して拒否するし、使える物はなんでも使おうとするし、ズル賢いし。

なかなか共感してもらえなかった生き方らしいのですが、私にはAさんが何をしてきたかが重要ではないのです。
Aさんの魂はずっと月を見ています。
誰も歩んではくれないこの人生。
Aさんはただひらすらに真っ直ぐ
自分の人生を生きているのです。
ゲンジツ的な私は、呆れますけど。

まぁ、その評価が大部分を占めると人は去っていく、と言っていましたが。
私は良い遺伝子を残すために生きてはいませんので、そういう比率や評価は全く無意味なのです。
ゲンジツを生きている時、生きている感覚はほとんどありませんでした。
だから時折Aさんの事が羨ましくなります。

苦しみながらも自分でしか決めれない感覚をずっと持ち合わせていて、人の気持ちがどうだろうと人に尽くすようにして自分の気持ちを尊重し続ける強さを持っているからです。

利己主義という言い方もできますが、それがAさんの生きるチカラとも言えるでしょう。
私は内なるところで同じ美しさを持つものにだけ、惹かれて引き寄せて生きています。

過去の記憶は曖昧で、未来はいつも想像でしかないので、やはり今の感度だけが私の命だと思うのです。
もし私が死んでしまったら、カラダはどこかに埋めて定番の葬式なんかやめてパーティーをして欲しいのです。
宇宙とひとつになれたお祝いだー!とか言って。
まぁ、そういう事ってゲンジツではきっと受け入れ難い事でしょうけど。

なぜこのような遺書にも近い文字を書いたのかと言うと暇だったからです。
本日の15時の予定をうっかり連絡しそびれていまして。でも、こちらに向かっているそうです。

人を待つのは苦手ですがまぁ自業自得です。
世の中の人ってみんな暇なんだな。
なんて思いながらこんな長い文章を書いている社会不適合者の私ですが、そんなどうしようもない私が好きなので困っています。

母が50年の不作だと言い張った私の命ですが。
50年も不作だと分かる彼女は才のある女性なのでしょう。まぁ50年も不作が続けばそれが普通になるんですけどね。
やはり世界は私を中心に回っているんですよと
23歳メスの私に教えてあげたいです。
キレイ事じゃ生きていけなくても、ほんとうにキレイなものは大事にしたい。
今でも同じ事を思っています。
合掌。