今日、近場をお散歩しながら

お花見をしてきました。






桜の時期に

祖父が亡くなったこともあって


最近は家族を意識する

お花になっていました。








桜ほど

開花から散りゆくまでのプロセスを


観察され、動向が見守られる

お花はないですね。







花はどれも散りゆくものなのに、

なぜ桜にばかり

散ることへの憂いを感じるのか




こればかりは

どうしても毎春見なくては


と皆が予定を組んだら

あれやこれやと

それに纏わることを思案する、、、






そんなことを考えていたら、

これは私自身の思考の現れではないか⁉️

とハッとした。







散りゆくことは決まっているのに

一喜一憂して

必死に自分を合わせようとしていた。







ものすごい執着があった。


全てを掌握しようとしていた。








私が見ていなくても、

桜は綺麗に咲き誇るのに、


いちいち観察して

見届けようとしていた。







それが幸せなことだと

いや、それをしないと幸せではない、

くらいに思い込んでいたかも。







見届けることが出来なくても、

桜が美しく咲き誇ることを願い、


開花した時には褒め称え

満開になれば賞賛すればいい。







それで満足、幸せではないか。







それをなぜこんなにも躍起になって

全て把握しようとしていたのか。







遠くから見守ること、祈ること

それこそ本当の愛ではないだろうか。







私が関与せずとも、

家族は皆、幸せ。







そう信じて

自分の人生を再び生きよう。