最近、山川の詳説日本史研究という本を読んでいる。
今日調べたこと、覚えたことを覚え書きメモとしてこのブログに残しておくことにする。
邪馬台国には畿内説と九州説がある。
畿内からは卑弥呼が賜った銅鏡が13枚出土しているらしく
畿内説が有力かと思う。また、卑弥呼のいた神殿が奈良県で発掘されている。
ただ、学者の間でもここは慎重に議論されていることなので
詳しいことは学者に任せる。
さて卑弥呼は何をしていたのだろうか。
当時、中国大陸では220年に後漢が滅び、北方の魏・南方の呉・西方の蜀がならび立つ三国時代を迎えた。
三国志に出てくる時代のことである。
この時代の歴史書である『三国志』の中の『魏志』倭人伝※には、3世紀前半から半ばの倭国の情勢が
かなり詳しく書かれている。
※正確には『三国志』の中の「魏書」の「烏丸鮮卑東夷伝」のなかの倭人の条のことで、倭人に関する記載だけで一伝が立っている訳ではない。『三国志』は西晋の陳寿が3世紀後半に残したものである。
それによると、倭国は2世紀の終わり頃大変乱れて、国々は互いに攻撃しあって年が過ぎた。
そこで国々が共同で邪馬台国の女王卑弥呼を立てて王としたところようやく乱はおさまり、
邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた。
とある。
当時は確か王と言えば男子だったはずである。魏志倭人伝にもそういう記述がある。
それが乱れてやむなく女王を立てたところ乱がおさまったということであろう。
卑弥呼は239年に魏の皇帝に使いを送って、男女の奴隷を10人と織物を献じ、「親魏倭王」の称号と
その金印紫綬、さらに様々な織物、金8両、五尺刀2口、銅鏡100面などを与えられた。
朝貢である。当時から朝貢という制度を取っていたのであろうが、卑弥呼はなぜそれを知っていたのであろうか。謎である。
しかしながら『漢書地理志』には「それ楽浪海中に倭人あり 分かれて百余国となす歳時を持ってきたり謁見すという」という記述があるらしい。これは紀元前の頃に書かれたもので、当時から謁見という概念があったことが分かる。
卑弥呼は「鬼道を事とし、よく衆を惑わす」とあり、巫女として神の意思を聞くことにすぐれていたらしく、長じても夫はなく、政務は弟がとったという。まだ神を祀ることと政治が未分化の祭政一致の段階であったことがうかがわれる。
卑弥呼はアマテラスオオミカミの事だったんじゃないかという説がある。
詳しいことは分からないが、参照した記述はネット百科事典コトバンクである↓
http://kotobank.jp/word/卑弥呼
また、卑弥弓呼(ひみここ)と呼ばれる、卑弥呼と対立した人物がいる。
狗奴国の人物である。
http://kotobank.jp/word/狗奴国(くなこく)
卑弥呼が当時食べていたものがサイニーの中の論文に載っているが見れないので残念である。
当時卑弥呼が行なっていた鬼道というものは、亀の甲羅を火で焼きそのひび割れの模様を見て占っていたという。 神の使いである。
邪馬台国は台湾だという説もある。卑弥呼が中国南部発祥の占い文化を受け継いで、北上してきた、と。
しかしながらまったくもって謎の人物である。
仕方がないので資料をあたってみることにする。
『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)』という本である。
魏志倭人伝を紐解いて邪馬台国のこと、卑弥呼のことをもっとよく知ろうという訳である。
