赤報隊といえば西郷隆盛らに利用され最後には汚名を着せられ処刑された設相楽総三率いる

新政府軍のテロリストだが、旧幕府軍が新政府に反乱を起こさせるように仕向け、鳥羽伏見の戦いのきっかけになったテロ、、

なぜか今、安倍首相を応援してきたネトウヨもこれと同じように利用され都合よく用済みとして扱われつつあるみたいですね

 

いつの世でも利用するだけ利用して 都合が悪くなると平気でポイ捨て、、

今の安倍内閣とよく似ているな。

 

 

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相楽総三18391868年)(さがらそうぞう)
西郷隆盛18281877年)

相楽総三(小島四郎左衛門将満)は、戊辰戦争時に赤報隊を組織して東山道を進軍した人物。そしてしかし「偽官軍」として、新政府から処刑された、いわば悲劇の人物のように記録されます。

「偽官軍」とされたことの詳しい経緯が気になります。しかしその前に、相楽総三は、23歳前後の若さですでに私塾を開いており、相応の能力と実家の財力に恵まれていたことが分かります。

総三は西郷隆盛の命令で江戸において様々な蛮行を行い、挑発された庄内藩による18681月の「江戸薩摩藩邸の焼討事件」を引き起こしました。徳川家を攻撃する大義名分が出来たわけで、総三たちは品川から紀伊国まで脱出しています。

この時、江戸での騒ぎはまさに西郷隆盛の指示であったのか? それとも、西郷のコントロールを外れたところで相楽たちの行動があったか、真相は不明です。しかし何れにせよ相楽たち浪士の蛮行は、鳥羽・伏見の戦い等が勃発する契機となりました。

その後、東山道軍の先鋒として進軍するなか相楽は「年貢半減令」を掲げました。しかし半減が実現不可能となった新政府により、赤報隊は「偽官軍」の烙印を押され、相楽は下諏訪で処刑されました。

新政府にとっては、旧幕府軍の反撃も意外と弱く、年貢半減令で民衆の指示を集める必要も薄れていたという背景があったもよう。相楽は西郷たち新政府軍の帰京命令に大人しく従っていたら処刑されなかったことでしょう。しかし拒否して東進を続け、下諏訪まで来ていました。

相楽総三に着せられた汚名はその後、孫の木村亀太郎らの尽力で名誉回復され、1929年には靖国神社に合祀されました。木村亀太郎氏は何度も政府へ嘆願書を送っており、正五位は1928年の昭和天皇御即位大典によって正五位が贈られたもの