物理的な(←実在するという意味で使います)ことじゃなくて、思考や記憶の大掃除したいです。
…というかたぶんしないとやっていけない…orz
私が記憶に拘るのは、父が亡くなる…一か月…二か月前の事かなあ…私を認知しなくなったことが崩壊するくらいショックだったから。
私の娘と息子が、おじいちゃんの病室から売店にジュ―スを買いに出たときに、父が横臥位で目を瞑ったまま『どこいきました?』って私に尋ねました。
普段絶対身内には相手が年上であっても、敬語というか丁寧語を使わない父が、です。
看護師さんか誰かに訊いているつもりなのだな、と、その時理解しました。
ショックを隠して、咄嗟に、「ああ、弟さんとジュース買いに行きはりましたよ」というと、
「そうですか。。。」とその状態のまま答えました。
このとき、私は父の中でタヒんだ、って思ってしまいました。
物理的に医学的になくなっても、遺った人の思考にその人が存在していたなら、私は生きていると考えていました。
だから、私は現実には生きていても、父の中では存在しないものなんだ、とそのとき認知したのです。
あの時、私はタヒました。
だから本当に小さい子二人連れて、交通の便が良くない(車持ってないし)病院にお見舞い行く回数が激減してしまったのだと思います。
本人が認知していない人がお見舞い行ったって、嬉しくも何もないでしょう????
子どもたちの事は、孫じゃなくて子どもと思っていたから、顔を見せに行くことはあっても、私が個人的に娘として父のお見舞いに行くことは激減しました。
当時、まだ生きていた従姉に、危篤だから来るように、という連絡をもらうまでは大学院(当時は修士2回生の多忙な頃)に通いながら子育て頑張ってました。
このことが相当ショックだったので(生きながらにして抹殺された)、記憶に拘るようになったのです。
当時の私にとっては専門家になることが目標になりました。もちろん子どもたちの事も決して忘れないように。
(実際には、父が亡くなったあと、仏壇がどうだの、保険金がどうだの、めっちゃ揉める母と父方の親戚バトルに辟易して、このとき、離婚後の潜在化の鬱が爆発的に表面化し、本来なら頑張らないといけない夏季休暇に、退行するくらいの激鬱になってしまって、子育てもままならないような日々がしばらく続きました。。。(理解の無い)研究室からM2の秋というとんでもない時期に別の研究室に変わり、そこから修士論文にかかりました。。。めちゃくちゃや)
邁進していました。無理すぎることを自分に強いました。修論締め切りの翌年1月には、胃炎が酷くなって、飲み物でも痛いし、やがて吐血してしまって、病院に行ったら、スキルス性胃がんを疑われる始末。そんな状態でした。。。
しんどいことを、もっとしんどい状態にじぶんをもっていって、それを乗り越えることで、最初のしんどいことを麻痺させる生き方をずっとしてきたようです。
そうして、いろいろありすぎて、今に至っています。
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きっかけはわずかなことでした。
今日、お買い物に出ようと思いました。
けど、なかなか起き上がれません。。。
最近は変なリズムになっていて、夜は21時ごろ、猛烈に眠くなります。何も服用していないのに、です。
そのままちょっと寝て、日付が変わるころ起きます。
まあ、息子君の用事で。
幼いころから周りに合わせる生き方を強いられてきたので、私以外の人に合わせてしまいます。
で、用事して、また眠ろうとしても、今度は眠れません。。。
朝方4時過ぎか、5時前になって、諦めて頓服飲んで休みます。。。
すると、やっぱりお昼までに起き上がれません。。。
そうして、ストレス反応があってから、過食になっていて、自分で作れないから、お惣菜かってきたり、レトルトになったり、お菓子になったり、、、もあって、
浮腫んで浮腫んでしんどいです。。。(もともと腎臓あまり強くない。。。)
でもどうしても一つでも家の事出来たくて、頑張って起きて、頑張ってお買い物行きました。
かつて「冷蔵庫にあまり食材無いの、すんごく悲しくなる」と息子君が行ったのを忘れられないからです。
これは以前、どうしても国際会議で、日帰り出張が出来ないときに、来てもらった母がいっていました。
「冷蔵庫くらい入れてあげたい」
見てられなかったのでしょうね。貧困状態が。
その影響を受けた息子君は今でもそう言います。
だから、頑張ってお買い物に行きました。。。
10月からまた値上げ。
ちょっと安価になっていた5kgの前年度産のこしひかり。。。。今年度さんになって、爆上がりしていました。
スーパーからするとそうしますよね。。。
えー。。。。
と、つらつら書いてきましたが、ここで母の価値観が息子を通して入って来ていたのが自認できました。
。。。。もう、その価値観では、自分が壊れて生きていけない。。。
父に忘れられたショックを覚えているから、頑張りすぎてしんどい。
鬱もよくならない。
鬱になった自分も責める(息子君は、自分がしんどくなると、「なんでお母さんしんどくなるねん!!!僕がしんどいときにかまてもらえないやん。なんで病気になるねん!!!」と当たります。。。しんどいです。。。私もしんどいから、って誰かに発散したい、、、というか、それが出来ずに育ちました。。。)
、、、、どんどん落ちていきます。。。。
これは思い出とか、ショックを受けたきっかけとか(その時の価値観含む)を、一掃しないと、
無理だ、って思いました。。。。
はい、もう無理です。
父が言った言葉と様相を含む一連のシーン、、、もう忘れてもいいよね、、、
父は2002年に亡くなりました。20年以上も命がけで頑張ってきたんだから、もういいよね。。。
だって、あのとき、私、タヒんだんだから。
きっと頑張った、というのは、抗ったんだと思います。
私生きてる!!!! だから若いころの父親以上に頑張る!!!! それでもって父の認知を凌駕したい!!!
とか変な理屈だったんだと思います。
母はまだ存命しているので、初めての親の死なので、とっても感情がゆさぶられていて、とてもじゃないけど論理的に冷静に対処できなかったんだと思います。
だからころ論理思考になりたかった。。。。感情的な人を嫌悪しました。。。
だから、自分の感情も嫌悪します。。。
全部全部、抑圧して来てしまいました。。。。。
もう、いっぱい、いっぱい。。。無理。
やっていたつもりが、手放せていなかったんですね。
親戚の潜在的な期待でもありました。親せきの中では父はよくできた人だったので、その長女の私は、父以上に、と、期待されていました。
勝手な理想を押し付けられてきました。
私は、、、無自覚でした。いくら応えても、キリが無いことも分かっていませんでした。。。
もう、ぜーんぶ、手放す。
じゃないと、本当に物理的に私がタヒんじゃう。。。
無理なもんは無理!!!!!
しません、できません。やりません。
勝手に期待して勝手に甘えないでください。
(子どもたちにも言いたい!!!wwww)