伊丹緑地の周辺地図

伊丹緑道なるものがあることを知らなかった。

伊丹市の猪名野神社の裏手から国道171号までの1,4キロ

↑の地図では産業道路に近接した辺りまで歩いた。

出発地は阪急電車の伊丹駅。

伊丹駅→伊丹シティホテル(用件あり)→墨染寺→猪名野神社→伊丹緑道→春日丘→伊丹駅

以下撮影は昨日

シテイホテル

簡素だが居心地はいつきてもいい。

ややウェディング用誘いが目立つかも

閑散な時間帯

この前に来たのは田辺聖子さんのお別れの会。甲子園出場チームの宿泊と重なり

ごった返していた。

1階のショーコーナー

歌謡ショーもあるよう。

2階ロビー

猪名野神社はクラフト市開催中

ウィキペディア:

猪名野神社(いなのじんじゃ)は、兵庫県伊丹市に鎮座する神社。猪名野坐大神(素盞嗚尊)を主祭神とし、誉田別尊ほか4柱を配祀する。

鳥居は平成8年建立 伊丹尼崎市内の神社の鳥居で平成8年の年号を記すものは多い。

前年の大地震で古い鳥居が倒壊したことを意味する

 

小雨状態でもあり客足はよくない。

江戸時代の伊丹郷町の北端であり、戦国時代有岡城の北端に位置し、惣構えの「岸の砦」が置かれていた場所にある。境内は有岡城跡の一部として国の史跡に指定されている。

ここも寄進を募集中。すべての建物が修築を求めている感じである。

神社の境内の広さは尼崎66社のいずれよりも広いと思うが、西宮の戎社や広田神社には及ばない。

この規模の神社にしては寄進された燈籠の数は多いといわれている。97基あるらしい。

 

言い伝えによれば、904年延喜4年)の創建という。1686年貞享3年)に本殿が再建されている。

伊丹郷町の氏神で、古くは「野宮(ののみや)」[天王宮」「牛頭天王宮」などと呼ばれていた。[2]

現在の本殿は貞享二年(1685)から翌年にかけて建立されている。 明治二年の神仏分離により、観音堂・地蔵堂および仏教関係の諸記録等を金剛院 (伊丹市)に移し、野宮から猪名野神社として改称された。[3]

境内の御由緒略記によれば、創建は延喜4年(904年)の創建で、寛文元年(1661年)伊丹の近衛家の所領となった。

境内の石灯籠は97基あり、一番古いものは寛永二十年(1643)、狛犬の台座は明和5年(1768)につくられている。

しかし江戸期の年号を持つ燈籠の倒壊・放置も目立つ

 

絵馬堂の疲弊ありあり台風去る

猪野野神社が伊丹郷町の北端であり、そこはまた地理的には伊丹台地の東端にあたる。

その部分が緑道(緑地)として整備された。

中に白州次郎の実家跡がある

 

白洲 次郎(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は、日本の実業家。貿易庁長官。兵庫県芦屋市出身。

連合国軍占領下の日本吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局経済安定本部の次長を経て、商工省外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した。

白洲次郎は1902年明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に貿易商白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた[注 1]

 

白洲家は元三田藩の士族の出。後に兵庫県川辺郡伊丹町[2](現:伊丹市)に建築道楽の父が建てた邸へ転居した。

精道尋常小学校、御影師範学校付属小学校高等科を経て、1914年大正3年)旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学[3]。サッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時白洲家にはすぐ謝りに行けるよう菓子折りが常備されていたという。アメリカ車ペイジ・オートモビルPaige Automobile )のグレンブルックを父親から買い与えられて乗り回しており、級友等を同乗させている写真が残っている。

 

神戸一中での成績は中以下で、成績表の素行欄には『やや傲慢』や『驕慢』、『怠惰』といった文字が並んでいる[4]。神戸一中時代には宝塚歌劇団の生徒と恋仲になった。同級生の友人には後に作家で文化庁長官となった今日出海、他に古典中国文学者の大家として、文化功労者になった吉川幸次郎がいる。

祖父である白洲退蔵キリスト教伝道系学校の神戸女学院の創立に関わったことから白洲家には外国人女性教師が寄宿しており、ネイティブな英語を学んだ

1919年大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに聴講生として留学[6]、西洋中世史、人類学などの授業を聴講した。のちに7代目ストラフォード伯爵となるロバート・セシル・ビング(ロビン)と親交し、イギリス貴族のライフスタイルを知る[5]

1925年(大正14年)ケンブリッジ大学を卒業し、大学院へ進学[5]

自動車に耽溺し、ブガッティ・タイプ35ベントレー・3リットル(1924年)を乗り回していた。ロビンと終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行している。カメラはライカを所有していた[7]

白洲次郎が所有していたベントレー・3リットルは、現在は埼玉県加須市にあるワク井ミュージアムに展示されている。また、所属していたクレア・カレッジ内にある図書館には、SHIRASU COLLECTIONと称した白洲次郎を記念としたセクションがあり、日本関連書籍が並んでいる[8

1928年(昭和3年)、神戸市神戸区(のちの中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、游学を止め日本への帰国を余儀なくされた[9]

1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。伯爵樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。

結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた[10]。1931年に旧制中学校卒業という学歴ながら、親のコネでセール・フレイザー商会に勤務し取締役となり、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となった。セール・フレイザー商会は明治初期より横浜で貿易商をしていたセールとフレイザーが明治30年に合併し、機関車や兵器などの輸入と銀行業務を行なっていた会社で、社長のジョージ・セールは白洲のケンブリッジ留学時代の学友だった[5][11]

この間、商談などで海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得[9]、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、牛場友彦尾崎秀実とともに近衛文麿ブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役を押しつけられていたこともあった。

なかなか優雅な羨ましい育ち、経歴である。