阪急「十三(じゅうそう)」駅より商店街を抜け徒歩7,8分のところに句会場がある。

国道176号線の交差点。駅の西改札口を出るとすぐ。

〒532-0024 大阪府大阪市淀川区十三本町の地図

淀川の左岸の緑地へ徒歩数分の場所。

阪急電車の宝塚はこの駅を出るとほぼ北へ、神戸線は北北西へ、京都線は大きく北東へ湾曲して淀川沿いを目指す。

このあたりの東西南北数キロは徒歩巡りの経験あり。

駅から176号線までの間は、十三トミータウン商店街。10年以上前までは、パチンコ屋やゲームセンターが幅を利かせていた。

トミータウンから交差点の向う側を写した。

交差点を渡って商店街へ入る。長い商店街である。十三フレンドリー商店街と呼ぶらしい。

午前10時前なので、まだ開店準備中の店もある。

右手にジャンボタコ焼きの特徴のある看板が見える。

商店街の歴史を知らないので、どの店が老舗なのかは分からない

こんな看板を見ると老舗なのだろうと思ってしまう。最近5年以上粟おこしなど口にした記憶はない。

粟おこし寶屋で検索。タベログなどいろいろ出て来るが、店のHPはないよう。

これも大阪の老舗らしいところ。

しばらく行くと右手に寺の門が見える

真宗の寺、長安寺。

寺の存在は昔から知ってたが門を潜ったことはない。今日初めて中へ

中も寺というより通路で両側に家が並ぶ

橋の欄干?

「長安橋」の文字の下に「寺」の字がみえるような。

ここも真宗大谷派の大阪教区第7組に所属する寺であること以外の情報はネット上にはなし。

賢太郎という作者名が読める歌碑

背面に富坂賢太郎の略歴  1968年建立

全文は、

冨坂賢太郎は明治二十四年五月三十日兵庫縣出石郡東但町栗尾に良吉の二男として生まる大正三年花田比露思の門に入り志ほさゐ あけびに出詠天賦の歌才と精進は幾多の秀歌を生む 同人として昭和八年より二度に渉りあけびを編輯す 昭和二年より大阪十三に住み昭和三十七年元旦輪禍に遇ひて逝く 享年七十一歳 昭和十年歌集 うたかた 昭和四十年遺歌集 としつきを出版
  昭和四十三年四月吉日
   あけび歌會建立
   門人 渡邊清次郎誌
 

ネット上に情報あり。

明治24年、兵庫県出石郡東但町栗尾に生まれる。
祖父の代から生糸仲買業を営んでいたが、父の代に倒産。

明治42年、単身家を去って神戸市元町の若林骨董店に勤めた。

大正元年、骨董店を出て生田区の湯屋に勤めた。

大正3年、武庫短歌会に投稿。

大正5年、明石での短歌大会で花田比露思に会う。

大正8年結婚、間もなく離別。神戸市八幡通で松の湯を開業。

大正9年、再婚。

大正12年、兵庫菅原通に移り、菅原湯を経営。

大正13年、八百屋を開業。

昭和2年、十三で古着屋を開業。

昭和5年、あけびに「無弦坊雑記」を書き始める。

昭和7年、花田比露思の和歌山転出後、あけびの編集人となる。

昭和10年、歌集「うたかた」を刊行。

昭和11年、あけびの編集人を島田兵三に引き継ぐ。あけびで「うたかた」の鑑賞特集

昭和13年、あけびの編集人を島田兵三から引き継ぐ。

昭和16年、八紘の編集に携わる。

昭和19年、八紘終刊。

昭和21年、妻死去。

昭和23年、二男自殺

昭和26年、呉服屋を開業。

昭和37年、交通事故で死亡。6月号で追悼特集

昭和41年、歌集「としつき」を発行。

昭和43年、長安寺に歌碑建立。
 

他の入り口もあるよう

真宗寺にはかならず親鸞像がある。

商店街で、句会場までの間で気になる店は他にもあるが、

会場へ着く直前

小籠包だけを商うこの店もその一つ

「美味小籠包」が店名のよう。

ほうれん草の小籠包

↑ほうれんそうの小籠包

食べログの投稿画像から

 

出句2句

菓子箱に金貨十枚秋暑し

肩寄せて木犀を嗅ぐネオン街