テレビの天気予報が、関西ではもう少し時間が経つと月が姿を現すでしょうと言ってたので、
数分後にベランダへ出てみた
電線を消去するためにさらにズームすると手がぶれる
雲が出て月食みたい
ワイフが10分ほどで月見団子作成
重複等未調整
- 三人は家族の初め団子花 上田日差子
- 初乗りの備中越えの吉備団子 下田 稔
- 団子屋に写真飾られ漱石忌 國田 幸
- 十団子も小粒になりぬ秋の風 許 六
- 宿の子の月見団子をねだりをり 本間 杏童
- しかと土押さへて菊芽団子挿し 藤野 山水
- 草団子盧山の雨を見にゆかな 橋本 薫
- 十団子や寺のまはりに山眠り(宇津谷慶竜寺) 細川加賀 『玉虫』
- 道路鏡に月うつりゐる団子坂(汐見坂句会にて) 石原八束 『黒凍みの道』
- 秋今宵うづく歯に団子ばかり煮て(家人に) 『定本石橋秀野句文集』
- 団子汁吹く息白し峠茶屋 房前芳雄
- 団子売る店節穴に目貼して 川村甚七
- 手作りは母の味して草団子 山田和子
- 仲見世の空の明るき団子花 黒米満男
- 母のため彼岸団子を買ひにけり 錦織 鞠
- 山中の涅槃団子としての色 小林牧羊
- 盆団子の白き故郷の客となる 有働 亨
- 不揃ひは不揃ひでよし草団子 水原 春郎
- 月桃やむかし団子の皮固き 橋本榮治 麦生
- 買初めの言問団子横にすな 遠山喜美子
- 十団子も小粒になりぬ秋の風 許六 (宇津の山を過ぐ)
- 盆団子の白き故郷の客となる 有働亨
- 持ち寄りし団子まちまち地蔵盆 西村和子 かりそめならず
- 天井に擦りし痕あり繭団子 藺草慶子
- 彼岸から片手の伸びて草団子 鳴戸奈菜
- 団子坂上り下りや鴎外忌 高浜虚子
- 笹の葉のそよぐ御手洗団子かな 朴二
- みたらしやきのふは吾妻の十団子 宗因
- 花よりも団子やありて帰る雁 貞徳
- 顔よせて鏡くもりぬ団子花 新田時子
- 初午や蚕どころは繭団子 吉野牛南
- 盆過ぎの講に持寄り団子汁 太田土男
- 花見団子五色の白きより食ぶる 猿橋統流子
- 上簇の葛団子つとに僧帰山 小原菁々子
- 団子花つぶらに枯れて*もがれけり 石原舟月
- 花よりも団子やありて帰る雁 松永貞徳 (1571-1653)
- 肌黒き月の団子をコテ盛りに 久米正雄 返り花
- 団子屋に逢着したり花の雨 寺田寅彦
- 下戸同士団子はどうぢや後の月 尾崎紅葉
- 月の団子兎~に偸まれな 尾崎紅葉
- ざらついた稗の団子をいただいて一粒は舌にのせて遊べり 山崎方代 こおろぎ
- 団子坂の菊盛りなり京は今 会津八一
- 焼跡に棲みつき月見団子かな 吉屋信子
- 亀の池花見団子の串沈む 辻田克巳
- 団子坂上り下りや鴎外忌
- 有様は我も花より団子哉 一茶 ■文化十一年甲戊(五十二歳)
- 看板の団子淋しき柳哉 一茶 ■享和三年癸亥(四十一歳)
- 道路鏡に月うつりゐる団子坂 石原八束 黒凍みの道
- 花曇り御八つに食ふは団子哉 夏目漱石 大正三年
- 花曇り御八つに食ふは団子哉 夏目漱石 大正三年
- 石女(うまずめ)や人形作る千団子 キち 俳諧撰集玉藻集
- 十団子も小粒になりぬ秋の風 許六 七 月 月別句集「韻塞」
- さみだれや棹にふすぶる十団子 左柳 俳諧撰集「有磯海」
- 送火や土産団子は三つ焼く 角川源義
- 汝食ぶや盆の団子の氷解く 角川源義
- 茶団子に日の当り来し時雨かな 石田波郷
- 二串の花見団子の三色かな 京極杞陽
- 花よりも団子やありて帰る雁 松永貞徳
十団子も小粒になりぬ の句については楠本憲吉の語りを聞いたことがある。
江戸物価史の蘊蓄であった。懐かしい。
貞徳の句と「花より団子」というフレーズ、どちらが先なのか?
Wikipedia:
松永 貞徳(まつなが ていとく、元亀2年(1571年) - 承応2年11月15日(1654年1月3日))は、江戸時代前期の俳人・歌人・歌学者。名は勝熊[1]、別号は長頭丸(ちょうずまる)・逍遊軒(しょうゆうけん)・延陀丸(えんだまる)・保童坊・松友など。他に五条の翁・花咲の翁とも称し、明心居士の号もある。子は朱子学者の松永尺五。
父は松永永種で、母は藤原惺窩の姉。貞徳が作成し登場人物の実在が確認され信頼度が高い系図によると、永種は入江氏の出(入江政重の子)で、祖母が久秀の叔母で、久秀の甥にあたり松永家の姓を継承した[2][3][注釈 1]。永種は松永久秀の子であったという説がある。キリシタンとして名を残した内藤如安は、久秀の弟・松永長頼の子であるため、貞徳とは従兄弟という関係になる。
他方 「花より団子」は「江戸いろはかるた」などが語源とされている。いろはかるたの成立は江戸時代後期である。
よって「花より団子」というフレーズは貞徳の句に触発されているといえそうである。
団子そのものの歴史は古い Wikipedia:
その末尾に十団子も登場。
団子は、柳田國男説の神饌の1つでもある粢(しとぎ)を丸くしたものが原型とされる。熱を用いた調理法でなく、穀物を水に浸して柔らかくして搗(つ)き、一定の形に整えて神前に供した古代の粢が団子の由来とされる。
粢(しとぎ)とは日本古代の米食法の一種、水に浸した米を原料にさまざまな形に固めたものを呼び、現在は丸めたものが代表的である[2]。別名で「しとぎもち」と言い、中に豆などの具を詰めた「豆粢」や、米以外にヒエや栗を食材にした「ヒエ粢」「粟粢」など複数ある[2][3]。地方によっては日常的に食べる食事であり、団子だけでなく餅にも先行する食べ物と考えられている[4]。
「団子」の名称は平安時代に書かれた『新猿楽記』に登場したのが最古のものである。南北朝時代に書かれた『拾芥抄』には「団子(だんす)」が登場し、ほぼ同時代の『沙石集』や『庭訓往来』にも「団子」の語が見える。柳田國男は「団子」の名称は後世になってから類似の唐菓子の名前が当てはめられたものに過ぎないとしている。
唐菓子の歓喜団(または団喜)とは、遣唐使が持ち帰ったとするインド料理(モーダカ)由来の菓子で、名前は歓喜天に供えることに因んでいる[5]。平安時代中期成立の『和名類聚抄』においても「歓喜団、一名団喜」と記し、団喜とは歓喜団の別名と扱っている[6]。
平安時代末から鎌倉時代末にかけての、日本最古の料理書である『厨事類記』では、歓喜団(団喜)は「粢(しとぎ)のようにしとねて、おし平めて(中略)良き油をこくせんじて入べし、秘説云、油に入れば、火のつきてもゆるがきゆる也(後略)」と説明し、粢のようにまずは調理し、後半は油に入れ揚げ仕上げる料理となっている[7]粢に似せて作る『厨事類記』の歓喜団(団喜)は今日の団子に近いとも言われる[8]。
室町時代になると、団子を「だんご」と読むようになり、竹の串に通したものが流通する。
宇津ノ谷峠の十団子や京の御手洗団子が登場したのもこの時代と言われている。
江戸時代になると、都市部や街道筋では甘味付きの団子が作られ、庶民の茶席や行楽の御供としても愛好された。その一方で農村部では主食の代用品や非常食として食べられるなど、その意味合いは異なるものがあった。
句会で「個包装」という言葉がつかわれている句があり、「小包装」が新鮮といって入選にした。
作者は喜ばれて、合同句集などにもこの句を遺しておられたが、
その時点では「小包装」ということばは既成語であることを後で知った。
花より団子も同じ。貞徳以前に、このようなフレーズは生まれていた可能性も高い。