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今日も一日中、各局で特集番組があった。

「なおみ節」は、昨年の流行語大賞の候補になっていたかどうか。

なっていなければ、2019年はこれできまりといった感じ。

まだ1月だが。

全仏、ウィンブルドンはハード・コートではないがどのような活躍を見せるか今から楽しみ。

 

三平井については何度か紹介したが。

「さんぺいゆ」 (尼崎地域史事典)

猪名寺ほか8か村の三平井組が利用する猪名川水系の用水路。猪名川西岸の伊丹郷下市場村(現伊丹市)の地先に取樋口を設置。取樋の築造時期は不明である。しかし、1589年(天正17)大井村々が、三平井堰の下流に本堰を作ろうとしたとき、抗議したらしいことから、取樋の設置は1589年より前と推定される。伝説にいう1575年(天正3)ころかも知れない。

「三平井組」 (執筆者は同じ山下幸子さん)

出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  三平井を利用する井組田中万多羅寺岡院上坂部村を含む)を井親とし、猪名寺清水上食満塚口を井子とする8か村で組織する。井組結成の時期は不明。1589年(天正17)大井が本堰を造るときに抗議をしたこと、また1592年(同20)大井組村々と猪名川の井河原で水の「大取合」を演じたことなどから、取樋口を築いた時期から間もなく井組が結成されたと推定される。17481749年(延享5~寛延2)の瀬掘り願いなどに、田中・万多羅寺・岡院・上坂部の4か村の名が三平井組を代表する形で見える。地元では、上記4か村を本縄(四縄)と呼んでいる。

水論

出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1592年(天正20)、先に本堰を築いた大井村々が干ばつにさいして新堰を造ろうとしたため、三平井村々と争いになった。これは双方の農民が槍・長刀を持っての大乱闘となり、6人の即死者を出した。おりから領主の大谷氏が文禄の役に出動中で不在であったために、庄屋7人が責任を問われて斬罪となった。取水場所である猪名川藻川の分岐地点付近での水流が一定しないため、先例となるべき分水協定が成立せず、その後も水争いが繰り返された。1670年(寛文10)の水論は、三平井の堰と下流の大井の堰の間は29間として解決したが、その後も179017931797年(寛政2・5・9)、1866年(慶応2)と渇水の年や水流の変化により藻川に水が流れにくくなると、大井側からの掘登りや三平井側の横堰をめぐって争いがおきた。

今は利用されていないようだ。このあたりは、三菱電機の広大な敷地となり、

廻りは密集住宅街となっており、水田も畑も姿を消している。

 

出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』(執筆は酒井一さん)

三平伝説:

  猪名川下流の井組の一つである三平井の成立にかかわる伝説。三平井は、川辺郡下市場村の地先に取樋口を設け、万多羅寺田中岡院上坂部など8か村約2,500石の村々の用水として利用されてきたが、同一水系の最大の井組である大井組と近世初頭からしばしば水論を繰り返した。この伝説は三平なる人物が4斗樽を配してひそかに引水し、その責を負って死んだとするが、1592年(天正20)5月に三平井組と大井組が、槍・長刀などを用いて一揆の様相を示す争闘を展開し、6名が即死、前田玄以の裁断で庄屋7名が処刑されたと後の文献が記録している。伝説では三平を個人名とするが、井名に因んで犠牲者を総称したものとみられる。御園〔みその〕地区に1932年(昭和7)ごろ建てられたと思われる石造三平記念碑があり、毎年5月17日に供養法要が営まれている。近世村落の形成にともなう新しい水系争論にかかわる伝説の一つである。

↑石棺 橋として利用されていたらしい。

現尼崎市内の各地域における水論(山下幸子):

 

近世において、尼崎市域村々に発生した水論=用水争論は、大川(武庫川猪名川藻川)からの取水などのかかわる井組間の争論と、井組内での水の配分および井親権に関する争論であった。ときには死傷者を出す熾烈な乱闘に発展し、責任者である庄屋層の処罰がおこなわれた。領主違いの村々にわたる水論は幕府の奉行所による裁定が必要であった。

 

  井組間の争論として武庫川水系では、富松井組と西岸の百間樋井組との分水争論が戦国時代の永禄年間(1558~1570)から知られ、これは17世紀半ばまで続いている。生島井組とすぐ下流に取樋口が隣接していた武庫井組との場合、1647年(正保4)渇水時に細った水筋から生島井組の取樋口までの瀬掘りをめぐって争論した例などもあるが、武庫川水系では18世紀半ば以降、井組間の大きな水論は見られなくなっている。1928年(昭和3)県の武庫川改修工事に付帯して六樋合併の工事が完了し、武庫川六樋合併普通水利組合が発足した。

 

  猪名川水系では、1592年(天正20)大井組藻川口に新堰を築いたことから三平井組と武器をもっての大乱闘になり、6人の即死者が出、その結果、庄屋7人が斬罪になった。また、1609年(寛文9)に大井組の新堰をめぐって水論が生じているが、江戸時代には大井組と三平井組および猪名川筋村々との水論が繰り返し生じた。近代になっても、1899年(明治32)兵庫県の猪名川筋堤防改修工事は大井・三平井両組の反対で設計を変更し、1907年(明治40)大井組の新堰をめぐって川筋村々が対立、1924年(大正13)上流の九名井組ほかと下流の大井組村々などとの争論がおこっている。このように猪名川・藻川筋での井組間の水争いが容易に決着せず、近代まで持ち越されたのは、両川に流入する水量が定まらなかったことに原因する。

 

  井組内での水論は、瓦宮村と若王寺村が1672年(寛文12)に干ばつ時の取水について分水法か番水法かで争った大井組の例をはじめ、三平井三ツ又井西明寺井の村々においても上流と下流村々の間で18世紀半ばから頻発し、1910年代に至ってもなお起こっていた。井親争論では、富松井組内で1726年(享保11)に井親の野間・友行村が井子4か村に水を流さなかったことから始まった争論が1824年(文政7)になっても和談に至らなかった例や、生島井組の井親争論のように幕末まで争論をくり返した例もあるが、他の井組のほとんどが今北村・大島井組下三か村井親争論のように18世紀末ころにはには終息した。江戸時代に入る以前に結成された井組では井親の力が強く、井組内の争論も早く収まったとみられている。

 

参考文献に挙がっている書の著者のお一人から、大学の教養課程で日本史の講義を受けたことを思い出した。

まさに近世農村史であった。

 

水論に青嶺湧き立つ負けるなよ 加藤かけい
 
水論や大利根川の痩せ細り 荒井 実
 
水論が嫁ひきとれとなつたとか 長谷川素逝
 
水論に農学校長立ちも出づ 竹下しづの女