小判草

 

ヨーロッパ原産で日本には明治時代に観賞用に導入された帰化植物である。

 

同属のヒメコバンソウ B. minor L. がある。形態的には似ているが、小穂が長さ4mmほどと遙かに小さく、また遙かに多くの小穂を一つの花序につけるため、外見的には大きく異なる。やはり雑草として広く見られる。またスズメノチャヒキ属にニセコバンソウ Bromus brizaeformis Fisch. et Mey. があり、やはり大柄な小穂が大きくてややふくらんで垂れ下がり、やや似ている。しかし護穎の先端が尖り、わずかにがある。

舟を待つ夕日の色に小判草 浜 福恵
 
奥入瀬の風が揺らすよ小判草 石川星水女
 
小判草からから振って海へ出し 小山 二虹
 
ふくらみし花の触れ合ふ小判草 中川 みさえ
 
小判草左右に咲きて犬を抱く 四ッ谷 龍
 
小判草振つてみてそれだけのこと 正木ゆう子
 
小判草ゆつくりと揺れ迅く揺れ 清崎敏郎
 
みどりの穂こぼし初めたり小判草 山田みづえ
 
小判草風に喜ぶことをする 原田青児
 
小判草むやみに増えて子なき家 鈴木昌江
 
小判草小判まぶしき庭薄暑 清崎敏郎
 
小判草磧へ径の消えてなし 上村占魚
 
膝の辺にゆれて親しき小判草 今井つる女
 
小判草摘んで千両ほどの音 小金千鶴
 
むさし野や午後は風出て小判草 伊藤いと子
 
小判草遠くのやうな音に鳴る 森田桃村
 
引き抜いて意外に軽し小判草 関口加代子
 
掌に受けて小判軽しや小判草 谷口雲崖
 
小判草小判まぶしき庭薄暑 清崎敏郎
 
小判草秋に似し灯に揺れやまず 山本夕村
 
小判草照りこぞりては茂りゆく 新村千博
 
小判草小判一連そろへけり 山本砂風楼
 
小判草風来るたびに風笑ふ 池上樵人
 
水門の丸ハンドルや小判草 藤田あけ烏 赤松
 
小判草手折りて小判手中にす 藤田あけ烏 赤松
 
由良の門や瞑れば鳴る小判草 浜明史
 
漁婦みち風のゆくての小判草 敦賀晴川
 
小判草磧へ径の消えてなし 上村占魚
 
漁村 昼寝 風に鳴るのは小判草 伊丹三樹彦
 
小判草鳴りそこかしこ夕茜 櫛原希伊子
 
少年に果てなき渚小判草 茂里正治
 
小判草疼くごとくに熟れゐたり 加藤三七子
 
木洩日に狐色なす小判草 堀口星眠 樹の雫

 

 

神戸市北区淡河町神田あたりの野辺には

キンケイギクが道沿いに咲いている

 

淡河歴史博物館HPより

 

鎌倉時代、承久の乱の後、北条氏一族の北条朝盛が淡河地頭職に任じられました。

 

その時、淡河庄(荘)の名前を取って「淡河」を名乗ったのが、淡河氏の始まりといわれています。

 

淡河氏は、その後戦国の末期まで、淡河城を拠点にこの地を統治していました。 

 

最近、勝雄地区の山中から発掘された経塚は、経筒の銘文に享禄3年(1530年)と刻まれており、室町時代のものと判明しています。経塚とは、平安時代末期に流行した末法思想を受けて、釈迦入滅から弥勒出現までの経典を保存する願意のために経を埋納した塚です。勝雄経塚では、法華経8巻が完存していました。

 

「淡河」という地名のいわれ

 

 

淡河町の歴史はまことに古く、遥か縄文人の登場から始まっています。町内にある萩原遺跡や中村遺跡等からは、この時代の多くの石器や住居跡が発掘されています。

 

時代を経て飛鳥期には、淡河に「泡河湖(アワゴコ)」という大きな湖があったという伝承があります。その後、湖の水位の低下や干拓事業の進展により、江戸中期以降には湖がなくなったようです。

 

本町(ほんまち)地区にある歳田(さいた)神社は、奈良時代末期に湖が干拓された時、水神を祀って建立されたといわれています。

 

 

奈良時代からの干拓の歴史がある。今も、グーグルやヤフーの地図で見ると、淡河の地区は、池だらけである。

 

今日は雨だったので、カメラを持たすに、淡河町神田へ。

地図上では「聖ヨゼフ修道院」と記されている所である。いつも画像紹介している池も現れるが、

そこを含めて名前が付いている池はそう多くない。

 

 

淡河町神田の神田もいろいろ読みがあるようだ。

 

神田(しんでん、かんだ)とは、日本において、神社の祭祀などの運営経費にあてる領田寺社領)のことをいう。御戸代(みとしろ)、御神田(おみた、おんた)、大御田(おおみた)とも。

 

淡河は鉄砲百合の産地でもある。