西東三鬼は津山生まれか?津山市主催の記念俳句大会がある。

 

西東 三鬼(さいとう さんき、1900年明治33年)5月15日 - 1962年昭和37年)4月1日)は、岡山県出身の俳人。医師として勤める傍ら30代で俳句をはじめ、伝統俳句から離れたモダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動の中心人物の一人として活躍。戦後は「天狼」「雷光」などに参加し「断崖」を主宰。本名・斎藤敬直(さいとう けいちょく)。

 

 

永田耕衣と同年の生まれ。

 

岡山県苫田郡津山町大字南新座(現在の津山市南新座)、父・敬止、母・登勢の四男として生まれる。家は代々漢学者の家系。1906年、父死去、以後長兄の扶養を受ける。

 

高等小学校時代は条虫にかかり虚弱であった。1918年には当時大流行したスペイン風邪で母が死去し、東京の長兄のもとへ移住。岡山津山中学校(現岡山県立津山高等学校)、青山学院中等部を卒業を経て、同高等部を中退。1921年、日本歯科医学専門学校(現日本歯科大学)に進学、1925年同校を卒業。同年秋に結婚し、長兄在勤のシンガポールに渡り歯科医を開業。1928年、不況による反日運動の高まりと自身のチフス罹患のため帰国し、東京の大森で医院を開業する。1932年埼玉の朝霞綜合診療所歯科部長に就任。自営を廃業。1933年、東京の神田共立病院歯科部長に就任。

 

1933年、医師業のかたわら、外来の患者の誘いにより俳句を始める。「三鬼」の号はこの時に即座のでたらめで作ったという(「サンキュー」のもじりだとしている文章もある)[1]。同年中に紹介を受け、三谷昭らによって創刊されたばかりの新興俳句系の俳誌「走馬燈」に投句。

 

翌年1月にはやくも同人に推され自選欄での発表を始めるが、1936年までは平行して「青嶺」「天の川」「ホトトギス」「馬酔木」「京大俳句」など各誌に投句している。これらの投句先は新興俳句系・伝統系さまざまであり、三鬼が特定の師につく考えがなかったことがわかる[2]。1934年末、新興俳句系各誌の連絡機関として「新俳話会」を設立。のちに発展的に解消し「十士会」となる。

 

1935年3月、同人誌「扉」を創刊。4月、平畑静塔の招請で三谷昭らとともに「京大俳句」に参加。以後同誌を主な活動の場とし新興俳句運動の中心的な存在の一人となる。1937年、無季俳句の制作に没頭、特に戦争を主題とした句を多く作る。1938年、胸部疾患を再発、腰部カリエスを併発し一時危篤に陥るが、奇跡的に回復。これを期に医業を辞め、シンガポール時代からの知り合いを頼り小貿易商社の社員となる。

 

1940年3月、「十士会」を母体として「天香」を創刊する。8月、いわゆる京大俳句事件に連座し検挙を受け、執筆活動停止を命じられ起訴猶予となる。以後、戦後まで5年間句作を中止。1942年、商社を退社し、妻子を東京に置いて単身で神戸に移住。翌年、のちに「三鬼館」と呼ばれることになる西洋館(生田区山本通)に住まいを移す。

 

私などは、三鬼といえば、神戸在住の洒落者という印象がある。

 

 

 

1947年、石田波郷神田秀夫現代俳句協会を設立。

 

この頃山口誓子の疎開原稿句集『激浪』に感銘を受けて誓子に近づき、1948年に誓子を擁して「天狼」を創刊。

 

 

また鈴木六林男らの同人誌「雷光」に招聘され指導者として参加。12月、平畑静塔の世話で大阪女子医科大学附属香里病院歯科部長に就任、2月に移っていた兵庫県加古郡別府町から大阪府北河内郡寝屋川町に移住する。

 

1952年、「断崖」を創刊、主宰。 1956年、香里病院を辞し神奈川県三浦郡葉山町に移住、角川源義の斡旋で角川書店の総合誌『俳句』編集長に就任。翌年に辞職し俳人専業となる。

 

1961年、胃癌を発病。年末に俳人協会の設立に参加。1962年4月1日、永眠。角川書店本社楼上にて初の俳壇葬が営まれた[3]。墓所は津山市の天法輪山成道寺。没後に第2回俳人協会賞が贈られる。

 

 

1992年、故郷津山市で三鬼の業績を記念し「西東三鬼賞」が創設された[4]

 

代表句

  • 水枕ガバリと寒い海がある (『旗』)
  • 算術の少年しのび泣けり夏 (『旗』)
  • 白馬を少女瀆れて下りにけむ(『旗』)
  • 中年や遠くみのれる夜の桃(『夜の桃』)
  • おそるべき君等の乳房夏来(きた)る(『夜の桃』)
  • 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す(『夜の桃』)
  • 広島や卵食ふ時口ひらく(句集未収録、「俳句人」1947年)
  • 頭悪き日やげんげ田に牛暴れ(『今日』)

現代俳句データーべスの中に、姉崎蕗子という人の鑑賞文がある。

 

昭和二十年から二十二年までの作品。


 戦後の混乱を経て時代が大きく変わり、いままで抑圧されて慎ましさを求められた女性が夏へ向けて薄着となった。そして街には乳房のかたちが鮮やかに見える女性のさっそうと歩く姿を見掛けるようになった。


 敗戦後、男性がすっかり自信を失いかけているとき、自由を手にした若い女性たちの胸を張って歩く姿に、三鬼は、乳房に焦点をあてて「おそるべき」と詠んでいる。「夏来る」という生命感と乳房の生命感とをぶつけることで、その時の驚きが伝わってくる。いまでは当たり前のことのようだが、それまで普通の女性は乳房を誇示することはなかった。(子育て中の女性は人前でも平気で授乳をしていたが)


 三鬼は、大正から昭和初期にかけて新興俳句、モダニズムのもっとも良い部分を吸収した作家の一人といえよう。新興俳句運動に参画し、自らも独自な生き方をした。


    美女病みて水族館の鱶に笑む


など、三鬼の女性はどちらかといえば退廃的な女性である。
 しかし、掲句は21世紀の現代にも通じる大らかな作品。いま街にはお臍まで出した娘たちがあふれている。もし三鬼がこの時代を見たらどのような俳句を作るだろうか。三鬼のことだから、ちょび髭を撫でながら「いやあ、いい時代になったものだ」と、目尻を下げて喜ぶかも知れない。」

 

ここ数日恐るべき「君ら」をテレビ画像や新聞紙面で、出会っている。

 

13歳の張本君、14歳の藤井君、17歳の平野君・・・

 

 

20連勝した後の記者会見「僥倖としか言いようがない」

中学3年生の発言ではない。

これでは、負けた相手も畜生!とは思わない。

 

将棋の世界では、羽生も謙虚な姿勢を崩さなかった。

スキージャンプの高梨沙羅なども気持ちのいい発言が多い。

 

ロベリアは盛りを越えたよう

長雨がないので、まだ数日は楽しめそう。

 

ダチュラガが咲き始めた。

今(23:28)撮った同じダチュラ。

ダチュラは夜行性。